「徘徊」を真剣にとらえ、ともに飛び立つ 坂口恭平『徘徊タクシー』
認知症の人が町をさまようとされる徘徊。
家族やケアワーカーなど周囲の人びとにとっては「訳が分からず」「困った」ものかもしれない。
認知症というだけに「認知」に問題があり、脳の働きの「低下」がそれを生み出すと考える人は多いだろう。
しかし、どうだろうか。
彼/女らは本当に「間違った」「訳の分からない」ことをしているのだろうか。
坂口恭平は一度立ち止まって考える。このように早まった考え方をしていいのだろうか、と。
彼/女らは自身なりに何かを求めて徘徊をしているのではないだろうか。そのとき、彼/女の世界は「普通」の世界と同等に考えることもできるのではないだろうか。
ボロのフォルクスワーゲンに曾祖母を後ろに乗せて、一度、彼女の行きたい場所へ行ってみた。そこには別の「山口」があった。
これは間違った「山口」なのではなく、別の「山口」なのではないだろうか。このようにして考えることによって私たちは縛られることなく世界をもっと広げることができるのではないか。
鷲田清一の『じぶん・この不思議な存在』では現象学的な視点から確か以下のようなことが書いてあった。
子どもが一人、部屋で自らの世界を描く。自らが船乗りや宇宙飛行士、そして「普通」の子どもの世界だ。
このように子どもは沢山の世界を持っているが、親に声をかけられたときにただの「普通」の子どもになってしまう。
このようにして沢山の世界があるのにも関わらず、私たちは世界を狭めているのではないか。
同じようにして、認知症の人びとにも別の世界があると考えてみる。
そして、「徘徊タクシー」としてその世界へともに飛び立つ。
そしたら新しい世界が待っているかもしれない。
しかし、どのようにしてこのような世界を、子どもや認知症の人びと=発達段階の「低い」とされる人びとの世界だけにとどめなくて、真剣に受け止めることができるのか。
ここは課題である。
ひょっとしたら、近年の人類学理論の近代的な単一自然vs多文化を超えるものとして捉えることもできるかもしれない。
これは優れた研究を待ちたい。