Anthropology and feeling’s diary

人類学に関する本、日常で思ったことなど。

ポストコロニアル論争を詩的にふりかえる 今福龍太『クレオール主義』

 

クレオール主義 (ちくま学芸文庫)

クレオール主義 (ちくま学芸文庫)

 

 

 ジェイムズ・クリフォードによる『文化を書く(Writing Culture)』をはじめとする、人類学に大きな論争を巻き起こしたポストコロニアル論争。

それまで当たり前とされてきたような国家、人種、民族、言語、文化…といった枠組みが西洋近代、植民地主義の産物であると批判される。

現在の人類学は、この時代を乗り越えたものもあれば、消化不良(あるいは無視?)のままのものもあるように思う。

個人的には、ポストコロニアル論争は人類学をより反省的にし、インフォーマントにもより寄り添った(搾取的ではない)方向へと促し、また新しい可能性を開いてくれたのではないかと考えている。

いずれにしても人類学を学ぶものにとっては無視することはできないだろう。

しかし、一括りにポストコロニアルといってもなかなか全貌はつかみにくいし(そもそも「全貌」などあるのか分からない)、批判の源泉である植民地文学などから入るほど本腰を入れる余裕もない。

そこで、本書は当時の批判を豊富なテキストをその圧倒的な感性とともに読み解き記述しているため、論争をふりかえるには良書といえるかもしれない。

 

以下、自分の関心に基づきつつまとめていく。

(底本としたのは青土社版(1991)ではなく、ちくま学芸文庫版(2003)で、150頁が新たに付け足された補遺として掲載されているので、その部分も触れられればと思う。)

 

①地理的な地域という囲いの中に植民地の人びとが押し込められて、ネイティブあるいは土着という概念ができる。―場所論

②それに対して土地に縛られていない者、それよりも優った「西洋人」がどのような視点でネイティブをまなざしたのかを批判する。―プリミティヴィズム論

③もはや設定された枠組み、境界線(文化、人種、言語…)によって事象を捉えることはできない。―越境論、混血論

④そこでクレオールという考え方を取り入れる。―クレオール

といった流れか。

どの章も初出は個別に発表された論文なので、明確に分けることはできないし、これらは一つの章の中でも組み合わされて示されているが、自分なりにピックアップし再構成する。

 

①場所論

パレスチナ生まれの亡命知識人E.サイードは亡命者にとっての故郷に対してこう書く。

あくまで自分自身のネイティブな土地があり、それに対して愛はあるとしたうえで

 すべての亡命において真実であるのは、その故郷が、そして故郷への愛じたいが失われてしまったということではなく、故郷の存在とそれに対する愛そのもののなかに、すでに喪失が本来的に埋め込まれてしまっているということなのだ。(本文より孫引きp.14 以下孫引きの場合でも同様にページ数のみを示す)

現代に生きる者にとって場所とは地理的な土地である以上に、それが含む、時の記憶のようなものが貼り付いている。

そしてその場所は、亡命者のような極端な例に限らず、移動して生きる我々にとっては常に葛藤を含む。

 

私自身の話を少しすると、母が沖縄で里帰り出産をし、幼少期を東京で過ごし、中学生まで名古屋の近くの街で育ち、知り合いのいない名古屋市内の高校へ通い、大学では再び関東へ来ている。

沖縄には親戚も多くおり、小さいころはよく遊びに行き、その空気を知っているが故郷とはいえない。しかし、外国に行くときなどに出生地を記載する欄があり、そこにはOKINAWAと書くしかない。知っているけど知らない、遠い記憶のような「故郷」のように思える。

 

あるいは誰でも住む場所を変える機会はあるかもしれない。その時の記憶と場所と名前。例えば3年間慣れ親しんだ「名古屋」という文字を見た時の心の動き。

 

多かれ少なかれ移動をしている私たちはこのような場所に対する葛藤と変容を抱えている。

これらの場所すなわち「現実と表象と権力の多様体」(p.15)を考察するために、次のように考えてみる。

そもそも、「場所」とは人間の文化を当てはめるためにできたものではなかったのだろうか。

「土地」という名で呼ばれる「場所」はたしかにそこにある。 土地は人間によって具体的に経験されるためにわたしたちを待っている。そのことを否定しようというのではない。…(中略)…

だが、「場所」という概念にひとたび地理的な土地としての実体的な根拠を与えるやいなや、わたしたちは奇妙な迷路のなかに迷い込むことになる。認識が、視覚的・平面的な存在論のロジックにつなぎとめられてしまうからだ。「場所」という概念がもともと人間の文化を記述=再提示(リピリゼント)するときのレトリックの一つとして編み出されたという由来を、そうした実体論は宙づりにし、曖昧なものにしてしまうからだ。(pp.15-16)

そしてこのように文化を記述するための思考によって作り出されたのが「土着」(ネイティブ)という概念だった。それは文化の存在を実体的な場所と結びつけている。

このときに注意すべきなのはここでいう「文化」とは狭義での文化である。より一般的な言葉でいうと「この地域に住む未開の部族には今も伝統的で純粋な文化がある」 という時の「文化」である。

 

「この地域に住む未開の部族には今も伝統的で純粋な文化がある」という言葉にはいくつか問題点がある。

まず、「未開」「今も」という点。つまり時間的な尺度で文化を捉えている点。つまり、「われわれ」は文化を失ってしまったが、「彼ら」は未だ「文化」を持っているという考え方だ。

そして、「この地域」というような表象は、彼らが土地に縛り付けられており、「未開」「野蛮」である卑しい存在であることを示す。

一方で逆に「われわれ」が失ってしまった、(彼らのもつ)文化が「伝統的」で「純粋」であると懐かしむような態度、すなわちレナート・ロサルドのいう「帝国主義的ノスタルジー」がそこにはある。

 

このようにして、実体的な「地域」が文化を表象=再提示するものとして現れ、土着(ネイティブ)の「文化」は西洋人を魅了していく。

 

②プリミティヴィズム論

このようして出来上がったネイティブに対して憧れを持つ西洋人は多かった。

 

本書での例は、1920年代に盛んになるモダニストによるネイティブアメリカンの村への旅。

これにはもちろん当時の人類学者も含まれる。

「金持ちのおてんば娘」ともいえるエルシー・C・パーソンズ(のちにアメリカ人類学会に初の女性会長として就任)はその一例として挙げられる。「純粋文化」への好奇心から、1910年代半ばからプエブロ・インディアンの村に足繁く通い事例を集めた。

人類学においてはルース・ベネディクトが、モダニストたちのような「純粋文化」への感動から、「文化の型」として「土地」と「土地」の差異を「文化」という言葉によって語ろうとする科学的パラダイムへと思考を変えた。(『文化の型』1934)

 

では、このような「純粋文化」への憧れ=プリミティヴィズムは無くなったかといえば、そんなことはない。

いや、むしろ多くの「地域」が世俗化し自分との「落差」「差異」が発見しづらくなることで、ファンタジーとしての「未開の地」が生みだされる。

例えば、ニューギニアで行われている観光としての「食人族ツアー」。

映像作家デニス・オルークの『カンニバル・ツアーズ』(1987)はこの行動を皮肉な視点で描き出しているように、観光客は「食人」という「プリミティブ」なものへの好奇心にそそられながら、顔面を白く塗りたくり、「原始ごっこ」に興じる。

ここでは、もはや実体的な「場所」はもはやなく「無時間」で「無形態」のネヴァーランドとなる。(p.94)

 

③越境論、混血論

今まで①場所論②プリミティヴィズムについて考えてきたが、ここでみられるように場所についての政治性というものは他の国家や人種、民族、言語についても同じように言える。

ここでは越境、混血性(これはどちらも自明とされるボーダーを攪乱する)について考えている。

 

 

移民のような人びとについて語るとき、多くはどのように考えるか。

 

社会にとって移民はもはや「文化を持たない」人びとであり、マジョリティの文化への順応が想定されている。

社会科学における異文化受容や同化の議論も同じだ。

複数の文化の接触は必ずその帰結としてマイナーな文化の支配的文化への 融合と同化のプロセスを多かれ少なかれ経過することになる。一つのまとまりを持ち、一貫性をそなえていると見なされるドミナントな文化の画す「境界」の外側から、別の文化の侵入がなされたとき、そのボーダー・ゾーンに起こる葛藤や紛争は、最終的に「受容」と「同化」という動きによって解決の方向にむかう、とそこでは想定されたのである。(p.105)

このような考え方の前提には、文化が明確な境界を持つという概念があった。

つまり、明確な境界があると考えることで対立が起きると考えるようになる。

しかし、メキシコの貧しい詩人が国境を跨いで手に入れたアメリカ製のペンとともに詩を書くことに見られるように、すでに私たちの中には異質なものが入り込んでいる。つまり、明確な境界はもはやないのである。

「われわれ」も「彼ら」も、ともにかつて考えられたような独立したホモジニアスな性格を持った主体として見なすことは、もうできない。「われわれ」のなかにはすでにいつのまにか「彼ら」が住み始め、はじめてわれわれと出会ったかに見えた「彼ら」の内部にも、すでに「われわれ」は棲息していた。このことに盲目を装いたい首都的な、ドミナントな、支配的な科学や権力だけが、いまだに文化のボーダー・ゾーンに生起する動きを抑圧しようとしているにすぎない。(p.106)

(モノや人の移動とともに明確な境界が無くなったと考えるべきではない。確かに移動の活発化でよりそれは加速しているようにも思えるが、モノや人の移動というのは以前からあり、文化概念の設定のほうが無理に区画した。もちろん、移動の活発化と共に文化概念の限界が露呈したというのは間違いではないだろう。)

 

このようにして、境界を超えるもの=越境とそれにまつわる混血性・ヘテロジアルな様子が見られたであろう。

 

おなじようなことは言語についても考えられる。そして、ここからクレオール主義へと導かれる。

 

クレオール

言語学の領域で「ピジンクレオール諸語」と呼ばれる一連の言語がある。

これは、大きくピジン語とクレオール語に分けられるが、どちらも元々の言語を話していた地域の人びとが別の言語を使うことで、その言語の用法が変化したものである。

例えば黒人の「ブロークン・イングリッシュ」などである。

わたしたちの多くは今でもこれらをより「高次の」「正統的な」言語の間違った使用法であるとみなす傾向がある。

しかし、これらは現在言語学でも「新しい言語生産行為」として見なされる。(p.210)

では、これらについて少し詳しく見てみる。

ピジン語とは

共有する言語を持たない複数の集団が交易等の目的で継続的に接触を繰り返す際に、相互のコミュニケーションの必要性からあみ出される一種の簡略化された言語のこと (p.211)

 をふつう指す。

例えば「ブロークン・イングリッシュ」は、「黒人」が「白人」の使う英語を話さざるをえず集団の中で生み出された言葉である。例えばtwo knives -> two knifeなどの簡略化がみられる。

 

そして、ピジン語がネイティブスピーカーを獲得した時にクレオール語は発生すると思われる。(p.216)

語彙の少ないピジン語をネイティブとして日常生活のあらゆる部分で使っていくにつれて語彙と表現力を獲得する。これがクレオール化である。

このクレオール語はもはや「間違った用法」ではなく一つの言語として捉えることができる。

特定の言語の領域を攪乱するようなクレオール語

この混血性と創造性を援用しながら現象を捉えようとする。それがクレオール主義である。

(そもそもクレオール自体はもとは新大陸生まれの白人を示していたという話は割愛する。)

言語的概念としての〈クレオール〉、そして流動的なアイデンティティ意識にかかわる文化概念としての〈クレオール〉の問題を見てきたいま、まさに焦点となるのが「思想の構え」としての〈クレオール〉についてである。従来の「民族的・言語的・文化的アイデンティティ」という固定化された帰属の領域から脱したところでつねに〈クレオール〉という現象が生成することの確認は、必然的にわたしたちをノン・エッセンシャリズム的認識の彼方に広がる、力強い思想実践としての〈クレオール主義〉の地平に導いていくからだ。(p.228)

補遺

ここで、クレオール主義のだいたいの本論は終わっているのだが、ちくま学芸文庫版の際に追加された話をすこし。

本論の初出は1990年であったが、文庫化されたのは2003年で約十年のあいだがある。

補遺の5つの章はいわば今福のクレオール主義のその後であるといえる。

 

全体的には、クレオール主義のもつノンエッセンシャルな立場をとりながらも、再び分断へと戻ろうとする世界について考察しているように見られる。

ディアスポラ概念とナショナリズム、コスモポリタリズムに関する考察がその代表といえるかもしれない。

あと町工場にあつまるガラスの流体性、ガラスであるというだけで各地から集められたガラスの性質を横目にみながら人間の移動について考える「水でできたガラス」という文章は面白かった。

 

ということで以上でまとめは終わり。

全体の流れだけではなく、本書に含まれた文芸批評やフェミニズムなども含めて読むと、何となくポストコロニアル論争の様相が分かったような気がする。

読み物としても面白いので、人類学を学ぶ人は一度読んでみることをおすすめしたい。

(ちなみに今年2017年に水声社からさらに2つの補遺が加えられて出版された。ちくま学芸文庫の装丁もよいが、水声社の装丁は桁違いにかっこいいのでおすすめ。)

 

クレオール主義 (ちくま学芸文庫)

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クレオール主義

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クレオール主義―パルティータ〈1〉 (パルティータ 1)

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文化を書く (文化人類学叢書)

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