バベルの世界―銃、性、言語、誤解
先日、東京都美術館で開催されていた「バベルの塔展」に行ってきた。
絵画自体はもちろん素晴らしかったのであるが、絵画にも映画にも何回も使われるモチーフである「バベル」について前から書きたかったことがあったので書いてみる。
バベルとは、ご周知のとおり旧約聖書「創世記」の一部分である。
要約すると、そのときバビロンに住んでいて同じ言語を話していた人びとは天まで届くような高い塔(バベルの塔)を建設しようとする。
このような人びとの行動に神は怒りを覚え、人びとにコミュニケーションさせないように話す言葉をバラバラにしてしまう。このことから混乱が起き、塔の建設は断念、人びとは世界各地に散る。
このことによって世界に住む人間の話す言葉が違うようになってしまったという話。
この話を初めて聞いた時には、何という悲しい話なんだろうと思ったが、一方で真理を捉えている気がした。
小さい頃、なぜ世界の人びとの言葉がこんなにも違うのだろうと思った。そして、人間全員が一つの言語を話せばどんなにいいだろうと思いもした。
面倒なことは無くなり、平和になるだろうと。
今はそこまで極端なことは思わないが、共感する部分も無くはない。
ここで、映画「BABEL」を見てみる。
アメリカ、メキシコ、モロッコ、日本を舞台として、互いの出来事が強く共鳴し増幅されながら同時並行的に物語が進んでいく。
映像と音楽の素晴らしさもさることながら、何といっても物語に通底する「バベル」の物語を現代を舞台として生々しくも鮮やかに表現したところには圧倒された。
これはバベルの世界であって、まさしく現代の世界だ。
そしてそこには救いがない。なぜなら、アメリカ、メキシコ、モロッコ、日本(そして聾の人びとの手話)それぞれの言語が異なるために、あるいはコミュニケーションできないために、互いを理解することができないからである。
だから、少年が兄と遊びで撃った銃弾が国際問題となり、聾の女子高生は激しく愛を求めるも叶わない。
人間は相変わらず性を求め、銃で武装する。それでもそれなりに平和にやっている。
しかし、言語の壁、「文化」の壁、国境の壁がそれをバラバラにして誤解をもたらす。そして、その誤解は限りなく増幅され世界を分断し、人びとは恐怖からいがみ合いをし続ける。
実際に起こっている国際問題もこんなことばかりなんだろう。
とにかく悲しい。
これが神の下した罰ならば、あまりにも酷いのではないか。
バベルの世界に救いはあるのか。
相変わらず今後の世界も戦争が続くしかないのか。
もはやどうすればいいのか分からないほどの絶望が襲ってくる。
でも、世界がバベルの世界であると分かったことは、ひょっとしたら少しの希望であるかもしれない。
完全に誰かと理解できるなんてことはない。むしろ誤解ばかりだ。だから過信しないこと。これが分かることは少しの希望かもしれない。
最後に、このテーマを簡潔に表しているCage the ElephantのAberdeenのMVを。