Anthropology and feeling’s diary

人類学に関する本、日常で思ったことなど。

内山田康『原子力の人類学』

 

原子力の人類学 ―フクシマ、ラ・アーグ、セラフィールド―

原子力の人類学 ―フクシマ、ラ・アーグ、セラフィールド―

  • 作者:内山田 康
  • 発売日: 2019/09/19
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
 

 

人類学者の内山田康はフクシマの原発事故の後、三陸海岸と福島の浜通りを中心に調査を続けた。フィールドに足を運び、その地で起きていることを人びとに聞き取り、ともに経験する。その中で、原子力という異質で巨大な装置と対峙するためにフランスのラ・アーグとイギリスのセラフィールドへ足を運ぶ。
本書は福島いわき市の『日々の新聞』で連載されたものを再編集したものである。そのため、それぞれの章で視点や場所が異なる断章だが、それぞれは部分的に応答し、喚起している。フクシマの魚とラ・アーグの木苺、住民の沈黙と政府の非公表…。この断章の集まりが原子力という巨大な装置の複雑さを表しているようでもある。グローバルに繋がり緊張する原子力のパワー、周縁における汚染、市民による検査、慣れ親しんだ環境で目に見えない核物質と生きること。それら全ては原子力という異質な装置を語るうえで欠かせないのである。

放射能は目に見えない。
古くから津波と隣り合わせで暮らしてきた人びとが、感覚としてどこに逃げればいいのか分かるのとは異なるように、放射能を目で見ることは不可能である(はじめに)。そして、放射能による環境や人体への長期的な影響も不確かな部分が多い。
そうした中で、どのように生きるのか。今までと変わらずに、原子力施設が放射性物質を放出し続ける海で泳ぐのか、その海で獲れた魚を食べるのか。検査は何が信用できるのか。政府はいつだって信用できない。トリチウムは「弱い」放射性核種だから「大丈夫」なのか。ラ・アーグの白血病患者の増加はどのように説明するのか。生み出され続ける矛盾と混乱、葛藤。

人間が他の生物・微生物と共に生きている共生体ホロビオントとして考えるとき―人間はその体内において他の生物を含んでおり、それらの作用なしでは生命活動を維持することもできない、例えば大腸菌なしでは消化もできない―、放射線が「独立した単体」として想定された人体に与える影響のみを試算し閾値を設定することで導かれる結論―それはいつでも「問題がない」と結論づけられる―は役に立たない(pp.136-7)。世界の認識の前提を変革しなければならない。

人間の活動に関してもそうだ。そこで暮らしてきた人びとは、環境の中で、環境とともに生活をしてきた。海で遊び、海からの生き物を食べ、畑には肥料として海藻をまき、時には荒れ狂う海とともに生きてきた。確かに人的な被害があったのは事実である。人間が環境と共に生きてきたことを理想化するわけではない。ただし、そこにあった世界とのつながりを人工的に分断したのは巨大な公共事業だ。潮受け堤防であり、原子力施設だ。これらは「単純かつ排他的で人間中心的な世界認識」に基づいている(p.111)。異質な世界認識は世界とのつながりを分断することをためらわない。世界とのかかわりにおける存在論的なずれ。海で泳ぐことと、汚染された海の横に小ぎれいに作られたプールで泳ぐことは「人間が泳ぐ」という点に関しては同じかもしれない。しかし、それらは全く別物だ。波に揺られながら海の生物を獲り家に持ち帰って食べることと、温度管理され隔離された水の中で泳ぐことは環境とのかかわり方が全く異なっている。

原子力という巨大な装置と対峙する上では思想から掘り起こさなければならない。そのとき、哲学や人類学は認識上の戯言ではなく(例えば「風評被害」として括られるような表面的な問題ではなく)、根本から問い直す武器である。作者の詩的であり私的な文章にはそのエッセンスが詰まっている。

 

原子力の人類学 ―フクシマ、ラ・アーグ、セラフィールド―

原子力の人類学 ―フクシマ、ラ・アーグ、セラフィールド―

  • 作者:内山田 康
  • 発売日: 2019/09/19
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)