アナ・ツィン『マツタケ』
カリフォルニア大学サンタクルーズ校*1の人類学者アナ・ツィン(Anna Tsing)(翻訳だとアナ・チン)によるマツタケを追いかけたマルチスピーシーズ民族誌。
原著は2015年、翻訳は2019年。(この記事は原著と翻訳をどちらも参考にしながら書いているので、訳語等の不一致があるかもしれない。)
原題は「The Mushroom at the End of the World: On the Possibility of Life in Capitalist Ruins」直訳すれば、「世界の終わりのキノコ:資本主義の荒廃における生命の可能性について」といったところか。
マツタケが生息し採集される場所を探し、アメリカからカナダ、日本、中国、フィンランドなどへ足を運び、そこでマツタケがどのようにして歴史と環境と経済の変化の中で生息し、収穫されるのか、そこにいる人達はどのようにしてマツタケに関わっているのかを丁寧な民族誌的調査を踏まえて、ウィットに富んだ文章に練りあげている。
数十ページほど章ごとに場所を変え、視点を変えながらも全体としてそれぞれのテーマは喚起、共鳴している。この本自体がそのキー・コンセプトである絡まり合い(Entanglement)やアッセンブリッジ(Assemblage)を示しているようだ。
絡まり合いは人間と非人間を巻き込んでつながりを生みだしている。そのつながりは資本主義とグローバル化に大いに影響するものであるが、それらのマクロに決定されるわけではない。ミクロで動的なエコロジーとローカルな人びとのエスニシティ、ジェンダー、コスモロジーが組み合わされている。いや、そのローカルな中にもグローバルなことは文脈は現れる。そのとき、グローバルvsローカルやマクロvsミクロのような対立を想定することは不毛であることが分かる。どれも巻き込まれ、部分的に絡まり合っている。そのとき一つ一つを切り離すことはできず、集合的な様態をなす。それがアッセンブリッジ。
例えば、オレゴンの森は利益のために手が加えられたことによってマツタケが生えるようになった。東南アジアからやってきてキャンプを張っているミエン人は、マツタケを法をかいくぐりながら採集(ハント)する。しかし、なぜマツタケを採るのかといえば、日本向けに輸出するためだ。日本でマツタケは高値が付く。
人間は、資本主義は、確かに自然を破壊した。だから現代は人新世とか資本世とか呼ばれる。しかし、マツタケを見てみれば人間の介入によって、生息が増えることがある。そのとき、人間は破壊者か創造者か。どちらも違う。人間もエコロジーにおけるアクターの一つである。それは人間の罪を軽くすることには決してならない。しかし、マツタケのように「荒廃」を好み繁殖するものもある。その生の可能性を考えることは人間vs自然という枠組みをはるかに超える。チェルノブイリや福島の高濃度に放射能汚染された地域から人間は去り、野生動物や元家畜の動物が繁殖しているように、「汚染」を「協働」として考えることは可能か。
マツタケとマツは一方的な搾取や支配の関係ではない。寄生者は寄生主を殺さないように、寄生はお互いの利益にかなった形で共生する。菌は中心を持たないで菌糸を広げて周囲のものを巻き込んでいく。それを採集する人間もその絡まり合いの一部である。人間はまた、マツタケを根絶させないように菌を振りまきながら歩く。そのようにして絡まり合いは次々へと転移し、拡張と縮小を繰り返す。
このとき菌はメタファーでもあり、実在でもある。
絡まり合いやアッセンブリッジというコンセプトは(直接的には言及されてないものの)ドゥルーズ&ガタリが『千のプラトー』で示したリゾームの概念に近いと思う。中心がなく、生姜のように形を流体的につなげる。リゾームの一部からは芽や葉が出てくるかもしれない。ハラウェイのサイボーグ的な主体と客体の不可分な状態、ストラザーンの部分的なつながり、バトラーのアセンブリ-(Assembly)とも共通しているように思った。
環境破壊が続けられ不確定要素が増えていく中、マツタケのような生き方とそれにまつわる絡まり合いは、確かに、「時代を生きる術」を示唆しているかもしれない。
The Mushroom at the End of the World: On the Possibility of Life in Capitalist Ruins
- 作者:Tsing, Anna Lowenhaupt
- 発売日: 2017/09/19
- メディア: ペーパーバック