Anthropology and feeling’s diary

人類学に関する本、日常で思ったことなど。

EASA2018に参加して

ちょうど2018/08/14~17にストックホルム大学でヨーロッパ社会人類学会(EASA: European Associasion of Social Anthroologist)の大会があり、同じ研究室のPhDの学生が研究出張も兼ねて日本から来るとのことで参加してみた。

日本の文化人類学会にも参加したことないのにいきなりEASAかよ、という感じもしたが、勉強にもなるだろうし国際学会の雰囲気を知る上でも良いかなと思って。

www.easaonline.org

今回のテーマはStaying, Moving, Settlingで、PlenaryやKeynote、Panel Sessionは移動にまつわる話が多かった。自分の興味も近いと言えば近い。

Keynoteストックホルム大学Sharam Khosravi氏のWalling, Unsettling, Stealingは自分が経験したストーリーから始まって、帝国が壁を作ること、それに伴って誰かを排除すること、排除された「他者」はFabianなどがいうように常に「遅れた」時間を生きており、国境での審査に時間がかかるようにいつも時間を「盗まれている」…。というような内容でとても面白かった。

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PlenaryやKeynoteが行われた大ホール。とても綺麗。

実際的な意味で痛感したのは自分の英語力の足りなさ。大半が非ネイティブで、ややクセのある専門的な英語を早口で話すとどのくらい理解できたのか分からない。まあみんな相互に理解しているように見えたから非ネイティブの英語とかは関係なくて、ただ自分の英語力が足りないだけなんだけど。これは課題。大学院では英語で授業を受けるためとにかく勉強するしかない。

 

それを差し置いても、話の内容は大体分かって面白く聞けるものもあった。

個別発表のPanel Sessionでは自分の卒論のための研究に完全に合致するテーマはないので自分の興味のある分野(技術、感情、マルクス生誕200年記念、マルチスピーシーズなどなど)を中心に聞きに行った。(というか人類学では完全に合致するテーマの研究者などいないし、そんな研究をやってもいけないのだが。)

例えば、David Anderson氏の研究は、先住民の動物に関するコスモロジーを特別視する傾向を批判して、西洋の考古学の研究でも「想像」が重要な役割を担っているということを明らかにするもので、切れ味がよく面白かった。

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自分としてやっぱり人類学が面白いなと感じたのは、現実を解体するような切れ味と、視点を反転させるようなラディカルさだなと。

それに関連して、これからの「民族」なき時代にどう人類学をやっていくのかというのは、人やものに注目する視点と、それを関連させる比喩の方法だったりするのだと思う。

これは浜田さんの草稿でも言われていること。

www.academia.edu

例えば、ITの革新について発表していた人の以前のテーマはジャズのアドリブだったという。一見つながっていない様に見えるこの二つのことは、不安定な異物を未来に投影させる方法とその実践という点でつながっている。

静脈の認証による移動の規制の話の最後のスライドには、静脈の網目模様と有刺鉄線の画像が並べられていた。

これはあまりやり過ぎると連想ゲームみたいになってしまうのだけど、そのくらい思考を柔軟にさせなければいけないし、それはなぜ人類学者が「他者」について書くのかという難問に関する答えでもある。人類学者のその思考が人やものを比喩でつなげて、静態的に見える現実の中で見えなかったものを明らかにし、動態的なダイナミクスを見ていく。

だから地域や民族を想定しないでも人類学はできる。(一方で同時にプラクティカルな面で場所性(ラポールや参照文献、言語…)が調査において重要なのは肝に銘じなけれならないが)

修士のテーマを考えるうえでも今後の参考になる学会だった。

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コーヒーブレイクの様子。各々が知り合いの研究者に挨拶したり、発表の議論の続きをやっていた。



東京に異世界を、デリーに近未来を

少し前に「フィリピンのスラム街の子どもたちに夢を届けたい」というクラウドファンディングが話題になって批判にさらされたのは記憶に新しい。

僕自身はまあ、内容が浅はかだなとは思いつつも、別にお金が集まったら行けばいいと思う。批判を受け止めて、少しだけでも学んで、行ったらいいと思う。

いけないなと思うのは、何が悪かったのか分からないまま人や場所に関する興味を失ってしまうことなんじゃないかな。

人類学に興味を持ちはじめた人の中にも、この大学生たちと同じような考え方をしていた人も沢山いるだろうけど、色々学んでいって視点を獲得するうちに違った捉え方で人や場所に関する興味を広げる人もいると思う。

ここでは批判点を一つひとつ具体的にあげることはしない。Twitterで回ってきた一人の意見を出発点としながらここにメモとして残しておこうと思う。

 

それはこのツイート

 

 もちろん、フィリピンのスラムと西成は違うけれど思考の方法として、こういうことが大事だと思う。

貧困とか異世界とかを想像するときに、インドとかカンボジアとかフィリピンがすぐに頭に浮かぶのは分かる。

でも、社会について色々考えてみると、自分のすぐ近く、大都会・東京にある山谷とか大阪の西成にも自分の知らない世界が広がっていることがある。

自分の中で転機になったのは書店でたまたま見つけた生田武志さんの『釜ヶ崎から:貧困と野宿の日本』を読んでからだった。それまで何となく西成や釜ヶ崎というような存在は知っていたが貧困地区なんだなくらいとしか思っていなかった。

でもこの本を読んで驚いた。自分の知らない世界がそこにはある。それから色々とネットで調べて東京には山谷、横浜には寿町だったりと「ドヤ街」は日本のいくつかの場所に存在することを知った。

山谷周辺の一人歩き

調べているうちに住んでいる場所から近い山谷に興味を持ったため、電車に乗って行ってみることにした。スカイツリー浅草寺の近く。北千住で電車を降りて、山谷の方向へ向かっていく。古くからの商店街には自家製の糠漬けを樽で漬けていて、魚屋には生きたドジョウがプラスチック製の桶で泳いでいる。あたりには腐った食材の鼻を突く匂いが漂う。商店街で一つ70円ほどの揚げたての天婦羅を食べる。

再び歩き続けると簡素な教会があって「山谷は日雇い労働者の街 再開発反対」との横断幕が掲げられていて、ついに山谷と呼ばれる場所に出たのだと分かった。

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アルコールの匂いと小便の匂いがどこからか漂ってくる。中年の男性が段ボールの上に座りながら仲間と話している。

「一泊2500円カラーテレビ付き」などと書かれた建物がいくつもある。ドヤと言われる格安の宿泊所だ。日曜の昼間だったためあまり人の姿は見られなかったけど、どれだけの人がここに住んでいるのだろう。

しばらく歩いたあと、街の雰囲気が急に変わった。吉原のソープランド街に入ったのだ。「お兄さん、休憩していかない?」とスーツ姿の男性から声がかかる。それを横目で見ながら、足早に通り過ぎる。

焦った気持ちで歩き続けると浅草寺まで出た。観光客が沢山いて、店が賑わう。まるで別の世界から帰ってきたような安心感があった。

 

少し前のことだし、ここではスペースがあまりないため詳細には書かないけど、実際に行ってみると本当に沢山の事を感じられる。ましてや例のツイートのように少しでも日雇いに加わってみればなおさらのことだろう。

 

一方でインドやフィリピンで大都会の場所だってある。デリーでは高速鉄道が走っているし、マニラの夜景は都市そのものだ。画像検索をしてみればすぐにイメージとは違う光景が広がっている。

 

自分のイメージを解体して、逆のものをそこに見出してみる。

東京に異世界を、デリーに近未来を。

ここにこそ人間の複雑な社会を見ることの面白さがあるんじゃないだろうか。

 

いや、わざわざ東京の一地域に行かなくても、自分の知らない世界がある。

僕の住む千葉でも千葉駅の高架下には数席だけの韓国居酒屋が並んでいる。いつも歩く道とは違う雰囲気がそこにはある。

大切なのは自分のイメージを解体し、いつもとは違う道を歩き、目を凝らし、想像力を働かせること。

 

社会はそこにある。

 

 関連して、以前書いた『Tokyo0円ハウス0円生活』の話。

anthropology-book.hatenablog.com

 

オークリー『旅するジプシーの人類学』

旅するジプシーの人類学 (晶文社アルヒーフ)

旅するジプシーの人類学 (晶文社アルヒーフ)

 
目次

はじめに

第一章 古くなった分類と描写

第二章 誤り伝えられる最近の姿

第三章 アプローチの方法

第四章 片隅の経済活動

第五章 自己帰属の問題

第六章 象徴の境界

第七章 ゴールジョによるサイト設置計画

第八章 流浪

第九章 トレイラー・ユニット、夫婦と子どもたち

第十章 グループ間のつながりと個人の親類縁者

第十一章 ジプシーの女性

第十二章 幽霊とゴールジョ

むすびの言葉

概要

 ジプシー研究の古典。ジュディス・オークリー(1944‐)はイギリスの社会人類学者で、本書は1971‐73年にかけて行われたフィールドワークをもとに1983年に出版されたもの。翻訳は1986年。

 まず本書が評価できる点は、接触が難しいといわれるジプシーを対象に長期の住み込みによるフィールドワークをすることによって、ジプシー社会内部からの視点を中心として広範な記述が行われていることである。ジプシー研究自体はかなり多く行われているが、ジプシー内部に入り込んだ人類学的研究というのはそこまで多くない。本書の内容は充実しており、社会人類学の伝統的な分野である親族形態の分析から穢れと象徴、経済活動、アイデンティティなど多岐にわたる。

 次に評価できる点はジプシーと呼ばれる人びとを独立した文化をもった民族として描くのではなく、常に社会のマジョリティとの関係によって成立し維持されている集団として捉えていることである。オークリーまでの研究、いや現在の研究に至ってもジプシーを独立した民族として他者化、本質化しているものは多い(本書第一章)。しかし、オークリーは本書において、ジプシーを捉えるために非ジプシー(ゴールジョ)との関係性・対照性に言及しながら記述をしている。

 本書の多岐にわたる詳細な記述内容を逐一要約することはここではせず、評者の関心に基づいて本書の内容をピックアップしたい。

ジプシーとは誰か

 まず、日本にはジプシーと呼ばれる人はいないため前提から整理する。ジプシーと呼ばれる人びとはヨーロッパ、バルカン半島アメリカ大陸をはじめとして世界中広く分布している。ジプシーという名称は彼らが15世紀頃に西欧に現れた時に「エジプトから来た」と言ったことに由来しており(エジプト→ジプシー)、外名exonymである。ちなみにこの点においてジタン、ヒターノ、ツィガーニなどはジプシーと同じ人びとを指す。これらの名を音楽や文学などで目にした人も多いだろう。

 ジプシーとは言語学者などの調査によってインド起源説が存在するが実際のところその起源の妥当性についてはよく分かっていない。現在、ジプシーナショナリストやInternational Romani Unionなどの政治的な意図を持った活動家はジプシーを「インド起源の一つの民族」として主張することがあったり、オリエンタリズム的な幻想を持ちたい人はこれを受け入れていたりするが今のところ科学的根拠はない。外見についても非ジプシーとの差が分からない場合が多く、ジプシーの言葉であると言われているロマニ語を話すジプシーは全体の割合に対して少なく、ジプシーの象徴であるとされる移動生活をしているものも少ない。しかし、これ自体も地域によってかなり差がある。

 本書で扱っているイングランドのジプシーは移動生活を行うものが多く、ロマニ語を話す人も多数であるとのことだが、だからといってジプシーを一つの文化を捉えることはできない。本書が指摘しているとおりに非ジプシーがジプシーになるときもあるし、逆もまた然りである。

 つまりごく簡単に言うとジプシーとは曖昧な集団なのである。誰がジプシーかということをはっきり言うことはできない。しかしながらも、歴史的にジプシーはジプシーとして捉えられてきたし、ジプシーも自らをロマ、トラベラーズ…などと自称し、周囲のジプシー以外の人びとをゴールジョやガジェなどと呼んで区別してきた。(本書のジプシーは自らをジプシーまたは流浪生活者(トラベラーズ)、非ジプシーをゴールジョと呼んでいる。)

 では、このようなジプシーをどのようにして捉えればよいのだろうか。

本書における分析の仕方

 オークリーはそれまでの研究者や政策決定者、一般人の「ジプシーは孤立した文化を持つ民族である」との考え方を否定する。

孤立という概念からすると、分離していて、しかもそれ自体で完全な「文化」であるものが存在すると考えなければならない。変化の兆候が見えると、それは独立を失ったと解釈され、発展すると、それは崩壊だと説明されてしまうのである。…(中略)…すっかり隔離されたグループであると想像すると、それが生物学的にはっきり分けられる、別の「人種」であるとさえ考えられてしまう。「混血の子孫」を生み出すグループの外への結婚と、グループに入り込んでくる結婚は、遺伝的な差異とともに文化の変化をもたらし、しかもぴったり平均がとれていると考えられるのである。(pp.65-66) 

  人類学的にはここで批判されているような「文化=人種/民族は独立している」というような考え方は遅くとも90年代には明確に唱える人がいなくなったように思うが、意識しないところで、あるいは一般的な言説の中でこのような考え方は根強い。

 では、これを批判したうえでオークリーはどのようにジプシーを考えるのか。

西側の資本主義国内に住むジプシーつまり流浪生活者が、経済的文化的に、また人種的に孤立しているという考え方は、ほとんど当っていないと思われる。…(中略)… 彼らはより大きな経済にたより、そのなかで彼ら自身だけのはっきりした活動範囲を手に入れるか、つくり出すかしてきたのだ。ジプシーは、より大きな経済と社会のつながりにおいてはじめて、グループとして生き残ることができるのである。…(中略)…したがって「インド」起源などという主張をさらに練り上げるよりも、彼らがいま生存しているいろいろな国にジプシーが姿をあらわし、そのまま居続けているのは、いかなる政治的、経済的状況によるのか、この点を調べる方がもっと適切なことである。(p.66)

 このように、ジプシーを独立した経済・文化を持った集団として捉えるのではなく(そもそもそんな集団などどれだけ存在するのか)、ジプシーがジプシーとして存続しているという現実を考えるうえで非ジプシーの主流社会(より大きな経済と社会)との関係が重要なのだという。

では、ここで第五章「自己帰属の問題」を見てみよう。

まず、はじめにジプシーがジプシーの内部でどのように規定されるのかを見る。ジプシーはよく「肌の黒い」ことがよく特徴としてあげられるが、オークリーはジプシーは非ジプシーと肉体的な特徴での区別はできないという。では、ジプシーはどのようにしてジプシーとなるのか。それはジプシーや流浪生活者(Traveller)と呼ばれているグループが、自分をジプシーだと自称するものをメンバーとして認めることにあるという。(p.122)

ちなみにここでジプシーと流浪生活者とを並列しているのは、彼ら自身が文脈によって自分たちの呼び方をジプシーとしてや流浪生活者として変えることがあるからである。

それはゴールジョとの関係(たとえばトレーラーを泊めるサイトにゴールジョが来たとき)に拠る。また、ロマニという名称や出身地などもゴールジョとの関わり合いの中で変化させて言明する。

結論としては、みずからを流浪生活者つまりジプシーと呼ぶ人たちは、外部からのカテゴリーの影のなかで生きのびてきたわけであり、また、そのカテゴリーを適宜にゆがめてきたのである。(p.137) 

 同様に、彼らの経済活動も主流社会との関係の中で行われている。

具体的な活動内容については第四章を参照してほしいが、スクラップ集めや行商、占いなどの仕事は主流社会の「片隅」に位置している。またこれを「インフォーマル(略式)経済」とも書いている。ジプシーは雇われることを嫌いつつも、社会の状況に順応しつつ経済活動を行っている。

興味深いのは、この経済活動の中でもジプシーは自らのイメージを操作する。例えば占いをするときには異国情緒をそそるような服装をし、道路舗装の仕事のときにはジプシー出身であることを隠すという。(p.111)実際、このためにジプシーが行っている仕事は一部しか見とめられないことがある。

 

このようにしてジプシーの内側に入り込みながら、オークリーはジプシーを独立した文化社会を持つ集団としてではなく、ゴールジョとの関係の中で成り立っている集団として詳細に記述している。

これはそれまでのオリエンタリズム的な研究とは一線を画す、人類学的な研究の結果であると言えるだろう。 

 

以下ジプシーについて興味のある人向け

 2017年に人類学者の左地亮子さんが書いたもの。スペインの国境近くのフランスに半定住しながら住むジプシーについての話。なぜ移動をするのかということと、それにも関わってくる共同性の話を文化人類学的な観点から。当然オークリー1970年代のイングランドのジプシーの話とはかなり違う。

マヌーシュについては自分が所属している研究室の映像コーナーに大森康宏さんの1977年の映像作品があって、とても面白かった記憶がある。と思って改めて調べてみたら民博のサイトで無料で見られるようだ。

www.minpaku.ac.jp

 

ジプシーを訪ねて (岩波新書)

ジプシーを訪ねて (岩波新書)

 

 これは学術書ではないが色んな国で「ジプシー」またはそれにちなむ名前で呼ばれている人を訪ねていった話。同じように呼ばれていても全く違う様子が描かれていて読み物として面白い。

 

ジプシー 歴史・社会・文化 (平凡社新書)

ジプシー 歴史・社会・文化 (平凡社新書)

 

実はまだ未読だけど水谷さんは翻訳も多く出していて多分日本で一番有名なジプシー研究者。

ニューエクスプレス ロマ(ジプシー)語《CD付》

ニューエクスプレス ロマ(ジプシー)語《CD付》

 

いくらマイナー言語を扱うニューエクスプレスでもロマ語が出るとは思わなかった。角さんはルーマニアでロマ語を教えているらしい。ロマ語といっても各国でジプシー呼ばれる人が皆使っている訳では到底なく、ジプシーは住んでいる国の言語しか話さないことがほとんど。ではなぜロマ語というものが体系的にあるのかというと標準ロマ語を整えようとするプロジェクトがあるから。

「小さな物語」と「映ってしまっている」ものについて

久しぶりの投稿になってしまったが、今回はいつもの記事とは違ってちょっと話題になっている話から。

映画『万引き家族』についての云々で少し気になって是枝裕和監督のHPの文章を読んでいたら「そうだよな、これって人類学・社会学も同じだよな」と一人で感心していたので荒削りのまま、思ったままここに書く。

(ここでは人類学・社会学と大きく括って書いているが、あくまで自分の興味関心に基づいたものを指しているので悪しからず)

引用はHPの以下の記事から

www.kore-eda.com

 「小さな物語」

僕は人々が「国家」とか「国益」という「大きな物語」に回収されていく状況の中で映画監督ができるのは、その「大きな物語」(右であれ左であれ)に対峙し、その物語を相対化する多様な「小さな物語」を発信し続けることであり、それが結果的にその国の文化を豊かにするのだと考えて来たし、そのスタンスはこれからも変わらないだろうことはここに改めて宣言しておこうと思う。

http://www.kore-eda.com/message/20180605.html

現在、世界中の人びとの生には国家が覆いかぶさっていて、人びとはそれから逃れられないように思われる。

人びとの何気ない日常はあるとき国家のイデオロギーや利益のために利用される。またあるときは排除され不可視化され忘れられる。なぜならイデオロギーや利益に合わない現実というのは権力にとって都合が悪いから。

国家が思い描く「典型的な日本人」のイメージみたいな。それ以外は「日本人」ではなくなる。

でも現実を見てみればそれに当てはまらない人たちが大勢いたし、今も大勢いる。

宮本常一が『忘れられた日本人』で描こうとしたのもそういう人びとの姿なんじゃないかと思う。「農耕民族としての日本人」ではなくて、海に生きる人びと、山に生きる人びと…。多様な日本人の姿。

「忘れられた」のはなぜか、国家が「世間」が「日本人」というカテゴリーを取捨選択し、ある人びとの生だけを「大きな物語」に回収したからである。

もちろんそれの全て悪いというわけではない。

でも、それでも現実として過去や今生きる人の生の在り方、物語が多様な形で存在することは事実だ。

そういった「小さな」現実の物語を拾っていくこと。

是枝はそれが映画監督にできることであるという。

人類学や社会学だってそのような人びとの在り方を丁寧に拾ってきたと思う(多くはエスノグラフィーとして)。全てがそうではもちろんないけど、少なくともそういう関心を持っている研究者が多いんじゃないか。

例えば、先に私たちは国家からは逃れられないと書いたが、実際のところ国家から離れて生を営んでいる人びとを少し違った視点から人類学者は描いてきた。ピエール・クラストルとかジェームズ・スコット、デヴィッド・グレーバーはそこらへんに位置すると思う。

また中村寛の『残響のハーレム』は国家によって編集された「大文字の歴史」と対比して、人びとが自身を結び付けて語るような「小文字の歴史」について示唆を与えている。

『断片的なものの社会学』に見られるような岸政彦もその類に入ると思う。

このような「小さな物語」にどれだけ「意味」があるかは分からない。でもそこでいう「意味」っていうのは国家とか国民にとっての「意味」なだけであって、私たちは知らず知らずの間にそれを受け入れているだけ。

実際に生きている人びとの姿を拾い集めて丹念に描いていくことは、私たちの当たり前の狭くなってしまったその「意味」を露呈させ、ガツンと私たちの頭を殴って、人びとが生きるこの世界の地面に足をつけることを可能にしてくれる。

こうやって小さな現実に圧倒され、自身を相対化して、それが結果的に世界を豊かにしてくれる、と僕も信じている。

 

「映ってしまっている」もの

こうやって相対化の可能性について人類学者・社会学者も映画監督同様に考えていて、もちろん社会へのそういう「メッセージ」は多かれ少なかれあるとは思う。

でも実際それを研究のなかで明確に表現することは少ない。

むしろ本や論文の中でやることと言えば拾ってきた物語を投げること。あとは読む者に任せる。そのときに読んだ者、見た者にとって重要なのは分かりやすいメッセージではなくて、小さな断片だと思う。

是枝は以下のように語っている。

作品内にわかりやすく可視化されている監督のメッセージなど正直大したものではないと僕は考えている。映像は監督の意図を超えて気付かない形で「映ってしまっている」ものの方がメッセージよりも遥かに豊かで本質的だということは実感として持っている。

http://www.kore-eda.com/message/20180605.html

 メッセージは確かに持っているし、聞かれればそれなりに答えるけど、もっと本質的なのは作品の中に「映ってしまっている」ものであるという。

これとは逆の話として是枝も挙げているマイケル・ムーアのメッセージ(銃規制とか)ははっきりしていて分かりやすい。「そうか、これがメッセージか、確かに問題だ」みたいな。

でも、こういう印象って誤解を恐れずに言うと「安っぽいジャーナリズム」を見た時みたい。自分の内側からは理解していない。

むしろそれよりも見た者を捉えて離さないような断片、例えば事例の中に現れる会話の中での言葉の使い方だったりとか、映像に映りこんだ冷蔵庫の古いシールとか、そういうものの方が私たちを変える力を持っていると思う。自己が変革するように内側から理解する。

是枝監督はそういうものを大切にしているし、人類学・社会学の優れた作品も断片に満ちていると思う。自分はその断片が好きだし、その可能性を信じている。

 

以上、是枝監督の言葉「小さな物語」と「映ってしまっている」ものから考えてみたこと。

 

忘れられた日本人 (岩波文庫)

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山に生きる人びと (河出文庫)

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断片的なものの社会学

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現代思想 2017年11月号 特集=エスノグラフィ ―質的調査の現在―

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T.インゴルド 『メイキング』第一章「内側から知ること」

メイキング 人類学・考古学・芸術・建築

メイキング 人類学・考古学・芸術・建築

 

ユニークな著作を発表しながら第一線で活躍する人類学者インゴルドの新刊。(原著は2013年)

 

題名にもある通りこの著作は「つくることMaking」について人類学、考古学、芸術、建築(Anthropology, Archaeology, Art, Architecture)の4つのAを横断しながらラディカルに捉えなおそうとした試み。

 

第一章「内側から知ること」は全体の導入と本論のための前提の提供。

知ることとは対象として見ること(外側から見る)によってではなく、それとともに自分自身も変化しながら知識を得るということ(内側から見る)であるとインゴルドはいう。

それはグレゴリー・ベイトソンが「二次学習」と呼ぶようなもの。分かりやすく言えば

動くことによって知るのではなく、動くことこそが知ることなのだ。(p.14) 

 例えば自転車を「知る」ということはどのようなことだろうか。

もちろん自転車や自転車に乗っている人を観察することによって、自転車がどのような構造で動き、どのようにして足と手を動かせばペダルとハンドルはどのようして動くのかということを「知る」ことができるかもしれない。

しかし、それで「知る」ということに関して十分なのだろうか。(実際にそれだけでは自転車には乗れない。)

自ら自転車を漕ぐようになって初めて自転車がどのように動くのかを知るということが出来る。それによって自転車を知ることができる。

このような例はよく身体知の文脈で用いられるが、ここでみられるような「知る」ということは身体に限ることではない。

身体に限らず思考なども身につけることができるからだ。

 

これをインゴルドは「探求の技術」として呼び実践していく。

探求の技術において、思考は、わたしたちがともに動く物質の流れやその変動に絶えず応答しながら、それらとともに進行するように振るまう。(p.26)

このような方法を人類学者の宮崎宏和は「希望のメゾット」と呼んだが、インゴルドは「応答correspondence」と呼ぶ(p.27)。

詳しくはのちに示すこととするが、ここであえてインゴルドが「応答correspondence」と呼びかえているのは、これまでずっと彼が唱えてきた「線line」の概念を発展させるために適していたからであろう。

この「応答correspondence」は本書での中心的な概念であり、以下の章はそれを人類学、考古学、アート、建築の分野で説明をしながら実践していく。 

ラインズ 線の文化史

ラインズ 線の文化史

 
メイキング 人類学・考古学・芸術・建築

メイキング 人類学・考古学・芸術・建築

 

 

当事者研究―「つながり」のための言葉を紡ぐ

つながりの作法 同じでもなく 違うでもなく (生活人新書)

つながりの作法 同じでもなく 違うでもなく (生活人新書)

 

実は別の本をまとめようと思って調べだしたら本末転倒?でなかなか書けなくなってしまい更新しておりませんでした。

この次の記事はそちらになると思うのでお楽しみに。

 

すこし箸休めというか、自分では手に取らなかったであろう本を講座の先輩が送ってくれて読んでみたのでちょっと紹介。

 

二人とも東大を拠点とする研究者で、アスペルガー症候群の診断名をもつ綾屋紗月と脳性まひをもつ熊谷晋一郎の共著。

研究者だから堅苦しい文章かというと決してそういうことはなく、むしろ本書に書いてあることを実践するように自らの感覚とそれの共有の作業を通じて紡がれた言葉によって編まれている。

 

本書にあるように、ある面で考えてみたらアスペルガーが「つながり」を持てない病で脳性まひは「つながり」すぎてしまう状態といえるかもしれない。

この二つの好対照が組み合わされながら当事者研究という「つながり」のための実践の可能性について説かれた意欲作。

 

第一章「つながらない身体のさみしさ」では綾屋がアスペルガー症候群の症状を、診断名がついていなかったときから振り返りつつ、自らの言葉で記述していく。

そこでは世界ひいては自分の身体との「つながり」が失われ世界が崩壊していく感覚が図式を用いながら記される。

その言葉は一見特異的だ。少し長いが引用しよう。

ある時は、体のパーツがバラバラに自己主張し、私はほかならぬ「私の身体」と、つながっていない状態になる。意識が半分ぼうっとしていることろへ、肩や腕の皮膚の上をカミソリで剃るような感覚がすうっと走り(これは冷たい風になでられたようで「寒い」と似た感覚である)、腕の肉は厚さ二センチ分くらい削がれてひらひら飛んでいってしまいかねず、両肩は肩甲骨の下の筋肉のところからねじ切れて離れていきそうである。…(pp.40-41)

 このような調子である。

私自身はこのような感覚を持ったことがあるような、ないようなという感じだったが、ある人にとってはしっくりとくるかもしれない。

 

第二章「つながりすぎる身体の苦しみ」では熊谷が脳性まひのリハビリの体験をもとに「つながり」すぎる身体について考えを巡らす。

「つながり」すぎ、言い換えれば密室のような状態をいかにして捉え、それを解きほぐすための方策を見つけるのかということが分析されている。

今まで脳性まひの人たちの世界を想像できたことはなかったのだが、ここの解釈は自分にもしっくりときた。このような状態は脳性まひを持つ人にとっての身体に限らず、「健常者」と呼ばれる人の心の動きや行動にも当てはまる部分が大きいと思う。

特に分かりやすかった図(p.46)を載せる。(手元にスキャナーがないので写真で失礼)

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身体の各部分が「つながり」すぎて、一部分が緊張すると他の部分も緊張する。そのため外部に対する反応がうまくいかない。この図と言葉は非常に分かりやすい。

 

第三章「仲間とのつながりとしがらみ」では綾屋がアスペルガー症候群であるとの診断を受けたあと自分と同じ症状を持つ人びととのつながりを獲得した経験をもとに、このようなカテゴリーに依拠するつながりには限界があることを指摘する。

綾屋はこのようなカテゴリーをもとしたつながりの段階について第一世代、第二世代、第三世代と名付けて分析する。

第一世代は自分がマイノリティであるとは知らず周囲の同化的圧力に押しつぶされそうになっている状態である。

第二世代は自分がマイノリティであることを認識し、おなじような仲間を見つけることで仲間同士で連帯を持つことが出来る状態を指す。これによって安心できる場所を見つけるが、ここには「つながり」をもつからこそのしがらみも発生する。マイノリティがグループとして存続するためには、そのカテゴリーをそのまま受け入れなければならないのである。具体的には自分自身を「アスペルガー」=ex.「コミュニケーション障害」という定式に則る必要があり、その中ではアスペルガーの「本物らしさ」「同質性」が強調されるのである。

このような第二世代の中では、カテゴリーの内部での同化的圧力と外部との分断が起こってしまう。

そこで互いの差異を認めながらも連帯できるようになる状態が必要になる。

それが当事者研究の実践という第三世代である。

 

第四章「当事者研究の可能性」では綾屋と熊谷が症状について自分の言葉で話した経験から当事者研究に出会い実践するまでが示される。

有名な「べてるの家」に見られるように、自らの状態に関して自らの言葉で表現し、それを同じような仲間たちと共有していくことで、より多くの人びとにとって理解可能なものとしていくことが当事者研究である。

「病気」には他者からの規定である病名と症状が伴うが、当事者にとってそれが自分の状態の表現としてなじむとは限らない。

そこで自分の言葉でそれを紡ぎだし共有し分析することで「内側からわかる」ようなものにしていくのである。

言い換えるならば、大文字の「病気」をいったん隅に置き、小文字の「病気」を作り出していく実践であろう。

ここで文化人類学者の大村敬一の「構成的体制」(「所属するコミュニティの言語、社会制度、信念や価値観」の基本設定)という概念を使っている(p.108)。個人の日常的実践における知覚と運動のループをコミュニティが共有する構成的体制にフィードバックし擦り合わせていくということを繰り返す。それを続ける営みが当事者研究である。

 

第五章「つながりの作法」ではこのような当事者研究をするにあたっての作法、自らの状態を「研究」するための方法と注意点が示される。

当事者「研究」というからには研究、すなわち一次データの集積とその解釈という二つの点が安定していなければならない。

そのための方法として「ダルク女性ハウス」に見られるような「言いっぱなし聞きっぱなし」の原則、アルコール依存症自助グループ「Alcholistic Anonymous」の「12の伝統」が参考になる。

 

第六章「弱さは終わらない」では以上のような当事者研究は固定化されるものではなく、終わらない自分の弱さを語る「場」としての当事者研究の必要性について示される。

 

 

以上、大枠だけをまとめたがこれだけでも刺激的で、かつ「地に足の着いた」考え方が実践されているのが理解できるだろう。

 

個人的には病気を医療側からの一方向的な実在としてのみ捉えるのではなく、患者側からの構成的なものとして捉えるという考え方が面白かった。

しかし、ここで疑問なのはどのようにして最初に「患者」が集まることが出来るのかということである。そこにはやはり大文字の「病気」としての実在が想定されているのではないだろうか。その実在を想定する限り範囲を超えてつながることはできないのではないだろうか。

ところが、本書を見返してみるとアスペルガー症候群と診断されていない自分や脳性まひを持たない自分にとっても「内側からわかる」というようなことが大いに存在することが分かる。

それこそが「同じでもなく違うでもなく」という副題に示されている「つながり」ありかたであるかもしれない。

このようにカテゴリーを超えて「つながり」をもつ当事者研究という方法には大いに可能性を感じた。 

つながりの作法 同じでもなく 違うでもなく (生活人新書)

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亡霊と同一化 アンナ・カヴァン『氷』

 

氷 (ちくま文庫)

氷 (ちくま文庫)

 

 たまには、人類学とか関係なく本当にただ雑記をしてみる。

この本は昔、自分の好きなアーティストがツイートしてていつか読みたいなと思っていたのだが、手に入れてからの積読をも経てようやく読み終えた。

 

内容自体は「氷」が迫ってくる戦争と暴力に満ちた世界で、主人公の男が銀色の髪の少女をひたすら探すというもの。

 

少女は以前、男と一緒に仲睦まじく暮らしていたことがあったのだが、突然別の男のもとへ行ってしまう。

その後、少女を追いかけて少女にとって絶対的な支配者である「長官」に近づいたり、離れたりを繰り返す。

やっと少女のもとにたどり着いて一緒に逃げようといっても、今度は少女が男を拒絶したり…。

本書の記述も幻影なのか事実なのか分からないような少女の姿があったり…。(あれ、少女死んだ?生きてる?っていうときが2,3回ある)

 

とにかく少女の存在自体も世界で起こっていることも、何が事実で、何が嘘なのかが本当に分からない。

少女の持つ美しいアルビノの肌と銀色の髪は幻影でもあり「氷」でもあるような気がする。彼女に主体的な実体はない。まるで亡霊。

いや、この退廃してどの人間も信用できない世界なんて全て亡霊なんじゃないか。

 

そして彼女を長官のもとから救おうとする男にむかって、少女はこんなことをいう。

「あなたたち、手を結んでいるのね」(p.155)

あの冷酷で支配欲の塊のような長官のもとから男は少女を守ろうとしているにもかかわらず、である。

そして、男自身もそれを聞いて、こんなことを考える。

 私は否定したが、不思議なことに、少女の言葉にはどこか真実があるように思えた。(p.155)

 

時は進み、必死の覚悟で少女のもとにたどり着いた男は、少女の怯え切った様子を見てこんなことを再び考える。

 二人は結託している。あるいは二人は同一人物なのかもしれない。(p.240)

 男は自らと長官との区別が分からなくなる。

亡霊の世界では自らの明確な境界など存在しないのだ。

 

この、世界が外側と内側からガラガラ音を立てて崩れる様子は読む者を不安にさせる。

 

最後の数ページでようやく少女は主体性を匂わせ、男に温かさを与えるが、世界はもうすぐ「氷」に覆い尽くされてしまうのだ。

 

氷 (ちくま文庫)

氷 (ちくま文庫)