Anthropology and feeling’s diary

人類学に関する本、日常で思ったことなど。

当事者研究―「つながり」のための言葉を紡ぐ

つながりの作法 同じでもなく 違うでもなく (生活人新書)

つながりの作法 同じでもなく 違うでもなく (生活人新書)

 

実は別の本をまとめようと思って調べだしたら本末転倒?でなかなか書けなくなってしまい更新しておりませんでした。

この次の記事はそちらになると思うのでお楽しみに。

 

すこし箸休めというか、自分では手に取らなかったであろう本を講座の先輩が送ってくれて読んでみたのでちょっと紹介。

 

二人とも東大を拠点とする研究者で、アスペルガー症候群の診断名をもつ綾屋紗月と脳性まひをもつ熊谷晋一郎の共著。

研究者だから堅苦しい文章かというと決してそういうことはなく、むしろ本書に書いてあることを実践するように自らの感覚とそれの共有の作業を通じて紡がれた言葉によって編まれている。

 

本書にあるように、ある面で考えてみたらアスペルガーが「つながり」を持てない病で脳性まひは「つながり」すぎてしまう状態といえるかもしれない。

この二つの好対照が組み合わされながら当事者研究という「つながり」のための実践の可能性について説かれた意欲作。

 

第一章「つながらない身体のさみしさ」では綾屋がアスペルガー症候群の症状を、診断名がついていなかったときから振り返りつつ、自らの言葉で記述していく。

そこでは世界ひいては自分の身体との「つながり」が失われ世界が崩壊していく感覚が図式を用いながら記される。

その言葉は一見特異的だ。少し長いが引用しよう。

ある時は、体のパーツがバラバラに自己主張し、私はほかならぬ「私の身体」と、つながっていない状態になる。意識が半分ぼうっとしていることろへ、肩や腕の皮膚の上をカミソリで剃るような感覚がすうっと走り(これは冷たい風になでられたようで「寒い」と似た感覚である)、腕の肉は厚さ二センチ分くらい削がれてひらひら飛んでいってしまいかねず、両肩は肩甲骨の下の筋肉のところからねじ切れて離れていきそうである。…(pp.40-41)

 このような調子である。

私自身はこのような感覚を持ったことがあるような、ないようなという感じだったが、ある人にとってはしっくりとくるかもしれない。

 

第二章「つながりすぎる身体の苦しみ」では熊谷が脳性まひのリハビリの体験をもとに「つながり」すぎる身体について考えを巡らす。

「つながり」すぎ、言い換えれば密室のような状態をいかにして捉え、それを解きほぐすための方策を見つけるのかということが分析されている。

今まで脳性まひの人たちの世界を想像できたことはなかったのだが、ここの解釈は自分にもしっくりときた。このような状態は脳性まひを持つ人にとっての身体に限らず、「健常者」と呼ばれる人の心の動きや行動にも当てはまる部分が大きいと思う。

特に分かりやすかった図(p.46)を載せる。(手元にスキャナーがないので写真で失礼)

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身体の各部分が「つながり」すぎて、一部分が緊張すると他の部分も緊張する。そのため外部に対する反応がうまくいかない。この図と言葉は非常に分かりやすい。

 

第三章「仲間とのつながりとしがらみ」では綾屋がアスペルガー症候群であるとの診断を受けたあと自分と同じ症状を持つ人びととのつながりを獲得した経験をもとに、このようなカテゴリーに依拠するつながりには限界があることを指摘する。

綾屋はこのようなカテゴリーをもとしたつながりの段階について第一世代、第二世代、第三世代と名付けて分析する。

第一世代は自分がマイノリティであるとは知らず周囲の同化的圧力に押しつぶされそうになっている状態である。

第二世代は自分がマイノリティであることを認識し、おなじような仲間を見つけることで仲間同士で連帯を持つことが出来る状態を指す。これによって安心できる場所を見つけるが、ここには「つながり」をもつからこそのしがらみも発生する。マイノリティがグループとして存続するためには、そのカテゴリーをそのまま受け入れなければならないのである。具体的には自分自身を「アスペルガー」=ex.「コミュニケーション障害」という定式に則る必要があり、その中ではアスペルガーの「本物らしさ」「同質性」が強調されるのである。

このような第二世代の中では、カテゴリーの内部での同化的圧力と外部との分断が起こってしまう。

そこで互いの差異を認めながらも連帯できるようになる状態が必要になる。

それが当事者研究の実践という第三世代である。

 

第四章「当事者研究の可能性」では綾屋と熊谷が症状について自分の言葉で話した経験から当事者研究に出会い実践するまでが示される。

有名な「べてるの家」に見られるように、自らの状態に関して自らの言葉で表現し、それを同じような仲間たちと共有していくことで、より多くの人びとにとって理解可能なものとしていくことが当事者研究である。

「病気」には他者からの規定である病名と症状が伴うが、当事者にとってそれが自分の状態の表現としてなじむとは限らない。

そこで自分の言葉でそれを紡ぎだし共有し分析することで「内側からわかる」ようなものにしていくのである。

言い換えるならば、大文字の「病気」をいったん隅に置き、小文字の「病気」を作り出していく実践であろう。

ここで文化人類学者の大村敬一の「構成的体制」(「所属するコミュニティの言語、社会制度、信念や価値観」の基本設定)という概念を使っている(p.108)。個人の日常的実践における知覚と運動のループをコミュニティが共有する構成的体制にフィードバックし擦り合わせていくということを繰り返す。それを続ける営みが当事者研究である。

 

第五章「つながりの作法」ではこのような当事者研究をするにあたっての作法、自らの状態を「研究」するための方法と注意点が示される。

当事者「研究」というからには研究、すなわち一次データの集積とその解釈という二つの点が安定していなければならない。

そのための方法として「ダルク女性ハウス」に見られるような「言いっぱなし聞きっぱなし」の原則、アルコール依存症自助グループ「Alcholistic Anonymous」の「12の伝統」が参考になる。

 

第六章「弱さは終わらない」では以上のような当事者研究は固定化されるものではなく、終わらない自分の弱さを語る「場」としての当事者研究の必要性について示される。

 

 

以上、大枠だけをまとめたがこれだけでも刺激的で、かつ「地に足の着いた」考え方が実践されているのが理解できるだろう。

 

個人的には病気を医療側からの一方向的な実在としてのみ捉えるのではなく、患者側からの構成的なものとして捉えるという考え方が面白かった。

しかし、ここで疑問なのはどのようにして最初に「患者」が集まることが出来るのかということである。そこにはやはり大文字の「病気」としての実在が想定されているのではないだろうか。その実在を想定する限り範囲を超えてつながることはできないのではないだろうか。

ところが、本書を見返してみるとアスペルガー症候群と診断されていない自分や脳性まひを持たない自分にとっても「内側からわかる」というようなことが大いに存在することが分かる。

それこそが「同じでもなく違うでもなく」という副題に示されている「つながり」ありかたであるかもしれない。

このようにカテゴリーを超えて「つながり」をもつ当事者研究という方法には大いに可能性を感じた。 

つながりの作法 同じでもなく 違うでもなく (生活人新書)

つながりの作法 同じでもなく 違うでもなく (生活人新書)