Anthropology and feeling’s diary

人類学に関する本、日常で思ったことなど。

「小さな物語」と「映ってしまっている」ものについて

久しぶりの投稿になってしまったが、今回はいつもの記事とは違ってちょっと話題になっている話から。

映画『万引き家族』についての云々で少し気になって是枝裕和監督のHPの文章を読んでいたら「そうだよな、これって人類学・社会学も同じだよな」と一人で感心していたので荒削りのまま、思ったままここに書く。

(ここでは人類学・社会学と大きく括って書いているが、あくまで自分の興味関心に基づいたものを指しているので悪しからず)

引用はHPの以下の記事から

www.kore-eda.com

 「小さな物語」

僕は人々が「国家」とか「国益」という「大きな物語」に回収されていく状況の中で映画監督ができるのは、その「大きな物語」(右であれ左であれ)に対峙し、その物語を相対化する多様な「小さな物語」を発信し続けることであり、それが結果的にその国の文化を豊かにするのだと考えて来たし、そのスタンスはこれからも変わらないだろうことはここに改めて宣言しておこうと思う。

http://www.kore-eda.com/message/20180605.html

現在、世界中の人びとの生には国家が覆いかぶさっていて、人びとはそれから逃れられないように思われる。

人びとの何気ない日常はあるとき国家のイデオロギーや利益のために利用される。またあるときは排除され不可視化され忘れられる。なぜならイデオロギーや利益に合わない現実というのは権力にとって都合が悪いから。

国家が思い描く「典型的な日本人」のイメージみたいな。それ以外は「日本人」ではなくなる。

でも現実を見てみればそれに当てはまらない人たちが大勢いたし、今も大勢いる。

宮本常一が『忘れられた日本人』で描こうとしたのもそういう人びとの姿なんじゃないかと思う。「農耕民族としての日本人」ではなくて、海に生きる人びと、山に生きる人びと…。多様な日本人の姿。

「忘れられた」のはなぜか、国家が「世間」が「日本人」というカテゴリーを取捨選択し、ある人びとの生だけを「大きな物語」に回収したからである。

もちろんそれの全て悪いというわけではない。

でも、それでも現実として過去や今生きる人の生の在り方、物語が多様な形で存在することは事実だ。

そういった「小さな」現実の物語を拾っていくこと。

是枝はそれが映画監督にできることであるという。

人類学や社会学だってそのような人びとの在り方を丁寧に拾ってきたと思う(多くはエスノグラフィーとして)。全てがそうではもちろんないけど、少なくともそういう関心を持っている研究者が多いんじゃないか。

例えば、先に私たちは国家からは逃れられないと書いたが、実際のところ国家から離れて生を営んでいる人びとを少し違った視点から人類学者は描いてきた。ピエール・クラストルとかジェームズ・スコット、デヴィッド・グレーバーはそこらへんに位置すると思う。

また中村寛の『残響のハーレム』は国家によって編集された「大文字の歴史」と対比して、人びとが自身を結び付けて語るような「小文字の歴史」について示唆を与えている。

『断片的なものの社会学』に見られるような岸政彦もその類に入ると思う。

このような「小さな物語」にどれだけ「意味」があるかは分からない。でもそこでいう「意味」っていうのは国家とか国民にとっての「意味」なだけであって、私たちは知らず知らずの間にそれを受け入れているだけ。

実際に生きている人びとの姿を拾い集めて丹念に描いていくことは、私たちの当たり前の狭くなってしまったその「意味」を露呈させ、ガツンと私たちの頭を殴って、人びとが生きるこの世界の地面に足をつけることを可能にしてくれる。

こうやって小さな現実に圧倒され、自身を相対化して、それが結果的に世界を豊かにしてくれる、と僕も信じている。

 

「映ってしまっている」もの

こうやって相対化の可能性について人類学者・社会学者も映画監督同様に考えていて、もちろん社会へのそういう「メッセージ」は多かれ少なかれあるとは思う。

でも実際それを研究のなかで明確に表現することは少ない。

むしろ本や論文の中でやることと言えば拾ってきた物語を投げること。あとは読む者に任せる。そのときに読んだ者、見た者にとって重要なのは分かりやすいメッセージではなくて、小さな断片だと思う。

是枝は以下のように語っている。

作品内にわかりやすく可視化されている監督のメッセージなど正直大したものではないと僕は考えている。映像は監督の意図を超えて気付かない形で「映ってしまっている」ものの方がメッセージよりも遥かに豊かで本質的だということは実感として持っている。

http://www.kore-eda.com/message/20180605.html

 メッセージは確かに持っているし、聞かれればそれなりに答えるけど、もっと本質的なのは作品の中に「映ってしまっている」ものであるという。

これとは逆の話として是枝も挙げているマイケル・ムーアのメッセージ(銃規制とか)ははっきりしていて分かりやすい。「そうか、これがメッセージか、確かに問題だ」みたいな。

でも、こういう印象って誤解を恐れずに言うと「安っぽいジャーナリズム」を見た時みたい。自分の内側からは理解していない。

むしろそれよりも見た者を捉えて離さないような断片、例えば事例の中に現れる会話の中での言葉の使い方だったりとか、映像に映りこんだ冷蔵庫の古いシールとか、そういうものの方が私たちを変える力を持っていると思う。自己が変革するように内側から理解する。

是枝監督はそういうものを大切にしているし、人類学・社会学の優れた作品も断片に満ちていると思う。自分はその断片が好きだし、その可能性を信じている。

 

以上、是枝監督の言葉「小さな物語」と「映ってしまっている」ものから考えてみたこと。

 

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