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Anthropology and feeling’s diary

人類学に関する本、日常で思ったことなど。まだまだ勉強中なのでご教示ください。

ロラン・バルトの『明るい部屋』まとめ

人類学を標榜しておいて、ようやくの投稿が哲学者のロラン・バルトっていうのもあれですが…
まあ、読書日記も兼ねていることだし、考えたことなんで書こうと思います。


この前、別の場所で写真について考える機会があり、その際にロラン・バルトの写真論『明るい部屋 写真についての覚書』(花輪光訳、みすず書房)を読んだ。

 

 

明るい部屋―写真についての覚書

明るい部屋―写真についての覚書

 

 

 

 

とりあえずまとめてみます。

 

最愛の母を亡くしたロラン・バルトは、母の面影を探して家にある写真をあれでもない、これでもないと見つめていた。

そしてついにこれぞまさしく母であるという写真を見つける。

 

それを見るなり、私はとっさにこう叫んだ。
《これこそ母だ!確かに母だ!ついに母を見つけた!》と。(p.123)

 

 

しかし、この写真とは、バルトがまだ生まれてもいない時代の写真、母の幼少期に温室で撮られた写真だったのである。(「温室の写真」)

この奇妙な現象を説明するために、この本は書かれたという。

 

そこで、バルトは写真(の部分・特徴)を2つに区別する。
ストゥディウム(studium)とプンクトゥム(punctum)である。

前者が一般的関心ともいえるもので、教養文化に基づいて思いを寄せることを示す。
バルトの想定するものとしては、歴史写真、民族誌学的写真に対する関心のようなもの。
「へえ、こんな時代はこんな服装していたんだ」「こんな地域にはこんな人がいるんだ」という感じか。

あるいはポルノ写真のように欲望を掻き立てるものも、文化的なものなのでこちらに入る。


一方で後者は、前者を突き破るものだという。
気になってしょうがないことによって享楽や苦悩を味わうもの。
そして、これは写真に写りこんだ「細部」によるものだと考える。

バルトはある家族写真(本にも掲載)がこちらに入るとして紹介している。
そしてその理由は、写真の中の女性が履いている「ベルト付きの靴」であるという。

これは個人の経験にもよるものでもある。
(ちなみにバルトは「私にとってしか母は見られない」として「温室の写真」は本に掲載していない。
←なんやそれ、見せてくれやと思うのですが)

このようにして、ストゥディウムとプンクトゥムの区別をしたわけであるが、これは共存しうるし、被写体に依存しているわけでもない。

と、ここまできたところで前半が終わり、後半はストゥディウムもプンクトゥムも言及されなくなってしまう。

後半はより写真を見る者一般について当てはまるように考えているのだが、上の区別も引き継いでいるように私には思う。

 

最後の章が面白くて、まとまっている。

 

社会は「写真」に分別を与え、写真を眺める
人に向かってたえず炸裂しようとする「写真」の狂気をしずめようとつとめる。
その目的のために、社会は二つの方法を用いる。
…以上が「写真」の二つの道である。「写真」が写して見せるものを
完璧な錯覚として文化コードに従わせるか、あるいはそこによみがえる
手に負えない現実を正視するか、それを選ぶのは自分である。(pp.142-146)

 

 

ここで本文は終わっている。
つまり、ざっくりと要約すると、写真は文化コードに沿ったものと、切実に自らに迫ってくるようなものがあって、それは人によっても変わってくるという感じか。

ここからは私見であるが、
これは近年の人類学でいう存在論的転回とも接合できるのではないかと思う。

というのも、バルト自身も写真の「存在論」を書きたかったとあるように、写真が自らに迫ってくるような場合、そのとき写真は人々に対して力を持っている、つまり、人々にとっての「存在」となっているといえるのではないか。

これは、写真が対象として観察されるのではなく、人々に何らかのことを働きかける力を持つことを意味している。そして、このように力を持っているということでエイジェント(準主体)といえるのではないだろうか。

 

こんな感じで考えられないかなと思っているこの頃です。
こういうこと書いていたら写真撮るほうも気になってきて、より平面的に細部を含むようなフィルム写真とかやってみようかなと思っているところです。