記憶の在り処 「Eternal Sunshine」
この前、ある人のツイートで映画「Eternal Sunshine」についてのコメントをしていたので早速借りてきて観た。
ツイートの内容はモノにも記憶があるというような内容であり、僕自身もこのようなことをなんとなく考えることはあっても明確に考えを深めることはなかった。
まさに、この映画はモノに関する記憶について表現した秀作。
ざっくりとあらすじを書くと、主人公の恋人が彼との記憶をある会社に頼んで消す。悲しみに暮れる主人公もまた彼女との記憶を消すことになる。
記憶を消す方法が画期的である。記憶を消したいその人との思い出のモノたちを全て会社に運び、それにまつわる記憶を一つ一つ思い出すことによって脳の活性度から記憶の場所を特定、マッピングする。その場所を刺激することによって、その人との記憶をすべて一掃するというもの。
主人公は記憶の消去中に、やはり彼女のことを忘れたくないと足掻き、別の記憶の中に彼女との思い出を埋め込もうとするが、どれも順を追って消される。
結局、二人が初めて出会った地名だけが頭に残っていて、彼女との記憶が何も残っていない主人公は衝動的にそこへ向かい、彼女と「初対面」として再会することになる。
映像はシュールかつ美的、音楽はBeckの幻想的なサウンドトラックで本当によくできた映画なのだが、ここで着目するのはモノと記憶ということである。
つまり、記憶とはどこに在るのかという問題である。
頭の中だけで何かを思い出すということもあるが、何かに囲まれていることによって記憶が成り立っていることのほうが多いのではないだろうか。
例えば、昔誰かと一緒に行った場所の、そこにあるモノ、その場の匂いetc…によって、パズルのピースが嵌ったように記憶が立ち現れること経験はないだろうか。
この場合、記憶は自分の中にだけあるとはいえなくて、取り囲むモノたちにもあるのでといえる。
逆に言えば、モノが無くなれば記憶もなくなるかもしれない。
だから映画では、その人と関わった全てのモノを持ってくるのである。
しかし、どうしてもモノの取りこぼしはあって、それの一つは絵であったり、車の傷であったりする。そして、それらのモノが引っかかりとして主人公たちはかつての関係のあったことを知るのである。
記憶の在り処はモノであるのかもしれない。
記憶とモノについて調べていたら、歴史についての社会学者でM.アルヴァックスという人が集合的記憶について提唱しているようだ。
記憶が共有される場としての歴史の展示などを挙げている。これは今度読む。
そして記憶は自己の継続性、同一性を確保する。
記憶があることによって自らが数年前と同じ人間であることが当たり前のことになるのである。
ここでは、もちろん記憶の在り処としてのモノがある。
実家に帰ったとき、自分の部屋の電気をつけると数年前の自分になる。傷のついた机、壁に貼ったポスター、枕カバーの生地…。かつての自分とは体の大きさも考え方も大きく異なっているのにあの時の自分が現れる。
このようにしてようやく、昔の自分と今の自分がつながっていることを知るのだ。
時々、それが鬱陶しくなって、全てのモノを捨ててしまおうかと思ったりもする。
自己同一性を否定したくなるのである。なぜ、あの頃の自分と今の自分が同じ人間でないといけないのか。モノが自分を「縛る」から、モノはなくてもいいのかもしれない。
逆に、本当に毎日毎日違うモノに取り囲まれていたら自己はどうなってしまうのであろうかと考えてみる。
狩猟採集民のように移動しつづける人びとはモノをあまり持たないことが多い。
東アフリカのハッザ族は「世界一物をもたない民族」などといわれるらしいが(これはあまりあてにならないがとにかく)、彼/女らの自己とはどのようなものなのか気になる。
ハッザ族に限らず世の中にはミニマリスト*1という人がいるらしいが、彼/女らの自己とはどのようなものなのか。
モノと記憶、そして自己。これについては今後も考えてみたい。