Anthropology and feeling’s diary

人類学に関する本、日常で思ったことなど。

印鑑と個人化

今日、用事があって郵便局の窓口で手続きをしなければならなかったのだが、その際に印鑑を持っていなかったことに加えて、自分がいつも使っている印鑑と通帳に登録してある印鑑が異なることから印鑑の変更、そして住所変更までしなければならないという七面倒臭いことになった。

住所変更は別として、なぜ印鑑?となったのではあるが、椅子に座って呼ばれるのを待っているうちに一つの考えが浮かんできた。

 

「そうか、印鑑は人を他の人から区別(アイデンティファイidentify)するものである(あった)のだ。そして、そうすることで初めて、この通帳を持っている個人と私が一致するのだ。」

 

つまり、印鑑の一つ一つが一人一人を特定するための道具となっている。印鑑がなければその人は手続きをすべき人間ではない。

 

言い換えれば、印鑑こそが一つの人格であるともいえる。

この前提には印鑑の一つ一つがちょっとずつ異なっていて、唯一無二の存在であるということがある。

これは、印鑑の使われる(いた)方法を考えてみてもいえる。会社の印鑑(法人)、会社用の個人の印鑑(会社人)、個人用の印鑑(家庭人?)、・・・。

このように印鑑はそれぞれ一つの存在を示すものとして機能している。

 

しかし、である。

人口が増え、人の移動も多くなり、印鑑も貴重なものではなく百均にも同じものが売られるようになったことで印鑑の上記の役割は果たすことができなくなってきているのではないだろうか。

(そういえば、私の子供のころまでは印鑑が貴重であり、かつ人格として機能していたことを象徴的に示す例が「いい人生に、いい印鑑」の大日本印章のCMだな。)

 

だから、印鑑が人格を表すことへのリアリティ、現実性が薄れてきている。

例の私の通帳は親が作ってくれたもので、テキトーに実家の引き出しにしまってあったテキトーな印鑑のうちの一つを押したものであろう。

(しかし、これは逆に言えば、ある意味、家族の全員が使う印鑑、つまり「家」の印鑑として機能しているので、部分的には一つの単位・人格を表していて興味深い。)

 

そのために通帳の印鑑に対して特に何も感じてなくて、手続きの際に印鑑を持っていこうとは頭にさえよぎらなかったのである。(社会性の欠如は別の問題…笑)

 

それに対して、郵便局員の「(当然のように)印鑑は必要ですよ」という語りは、毎日印鑑をもとにして人格を扱うという手続きする者としてリアリティを持っているということであろう。

 

しかし、先述のように印鑑を取り巻く環境の変化にともなって、社会における印鑑の役割のリアリティは失われつつある。

それを表すように多くの手続きで印鑑は不要になっている。実際、私の持っている他の銀行の通帳に印はない。(登録は一応されているはずだが)

 

そして、今日の事例で考えれば、ついには印鑑が人を区別することをやめ、むしろ他のモノによって印鑑が区別されるということが起こった。

その他のモノとは免許証である。免許証を見せることで印鑑がその個人のものであることとを決定するのである。この人の印鑑がこれであることを登録するためには、より高次元な区別化のためのモノ、免許証が必要なのである。

 

現在、多くの本人確認は免許証やパスポートといった顔写真、生年月日の両方が記載されているものによって行われる。

まさにTOEFLの試験を受けるときなどに必要なID(identification)である。

今度は顔写真と生年月日の両方によって個人が特定されるのである。

 

印鑑に代わるものとしてIDが普及する。

しかし、ここで重要なのはこのようなIDと印鑑の違いだ。

印鑑が私の通帳のように家族での使いまわしが可能であり、複数人をひとまとめにする「家」を特定することができるのに対して、IDはまさしく個人indivisualを特定する。

これによって個人は家族の他の成員とは異なる人間=人格となる。

IDが普及することは、個人としての人間が生まれることを意味する。

 

さらに、現在進行中のものとして、マイナンバーカードはより一層の個人化を図っている。というのも、IDが(可能性として、ではあるが)同じ誕生日、同じ顔の人を区別できないのに対し、マイナンバーカードは一個人に一つの番号を付けることによって、他の個人とは明確に区別する。

 

このように、印鑑からIDを経由してマイナンバーカードへの区別の方法(アイデンティフィケーション)は個人化の進展といえるであろう。

 

そして、そして重要なのは個人はこのようにして作られるということである。

個人がいて、それを明確化する過程なのではない。逆である。明確化することで個人が生まれるのである。

 

 

ロラン・バルトとクランベリーヨーグルト

 

 

明るい部屋―写真についての覚書

明るい部屋―写真についての覚書

 

 

前回のロラン・バルト『明るい部屋-写真についての覚書』は、最初この記事を書きたいがために書き始めたのだが、まとめているうちに内容の確認が必要になって、そのまま単なるまとめになってしまった。

ただ、言いたいのはこのことである。

 

前回の投稿で『明るい部屋』の最後の章「48 飼い慣らされた「写真」」でこんな一節がある。

写真を特徴づける、そして写真を他のものと区別する方法が、写真を一般化し、大衆化する方法であるとバルトは言う。

 われわれは一般的なものとなったある想像物に支配されて生きているのだ。たとえば、アメリカ合衆国では、あらゆるものがイメージに変換される。極端な例をあげるなら、ニューヨークのポルノショップに入ってみるとよい。そこに見出されるのは、悪徳ではなく、ただ単に悪徳の生き生きとした場景だけである…(中略)…。 そうした場所で自分の体を縛らせ鞭打たせている名もない個人…(中略)…は、自分の快楽がスレテオタイプ化した…(中略)…サド・マゾヒスト的イメージと合致しないかぎり、いわば快楽を感ずることができないのだ。(p.144)

つまり、アメリカ(それは例として挙げているだけで地理的な範囲は問題ではない)では、想像物でしかないイメージの中に人間が包み込まれている。

人間はその中でしか、欲望(この場合、性的欲求)を満たすことができない。

 

SMプレイにハマり込んでいる人にとっては、SMプレイという形式=イメージの中に身を置くことでしか、人間の本性的な(動物的?)欲求である性的欲求すらも満たすことができない。

 

ここまできて、これは極端な例であるのもあって、共感しつつも、どうかなーと思っていた。しかし、つい先日アメリカ合衆国に行く機会があって、そのなかで「あ、これだ!まさしくこれだ!」と思うことがあった。

それこそ、まさしくモーテルの朝食として乱雑に置かれていたクランベリーヨーグルトを開けた瞬間であった。

そのクランベリーヨーグルトは、驚くほどのピンク色をしていた。

重要なのは、ヨーグルトにクランベリーを入れることによってピンク色になるか、その是非ではなく、クランベリーヨーグルト=ピンク色というイメージである。

(ちなみに別の場所でブルーベリーヨーグルトを食べたときには薄ぼけた紫色であった)

つまり、クランベリーヨーグルト=ピンク色というイメージを我々は当たり前のものとして考えていて、逆に言うと、クランベリーヨーグルトがピンク色でないと、それではないような気がするのである。

だから、イメージの世界であるアメリカでは、クランベリーヨーグルト=ピンク色として人々は当たり前に食べて、そして、そうあることでしか「おいしさ」を感じることができない。

これは、先述のSMプレイの快感と何が異なるのか?同じである。 次元としては同じことである。

ここで、フィールドの経験と概念が接合される。

つまり、人々のイメージが人々を包み込むという概念がクランベリーヨーグルトを食べる経験によって体現された。

 

まったく事例が異なるように思っていても、日常の経験は概念と結びつく。これこそ、人類学の面白さなのかもしれない。と、無理にまとめてみた。以上。

 

ロラン・バルトの『明るい部屋』まとめ

人類学を標榜しておいて、ようやくの投稿が哲学者のロラン・バルトっていうのもあれですが…
まあ、読書日記も兼ねていることだし、考えたことなんで書こうと思います。


この前、別の場所で写真について考える機会があり、その際にロラン・バルトの写真論『明るい部屋 写真についての覚書』(花輪光訳、みすず書房)を読んだ。

 

 

明るい部屋―写真についての覚書

明るい部屋―写真についての覚書

 

 

とりあえずまとめてみます。

 

最愛の母を亡くしたロラン・バルトは、母の面影を探して家にある写真をあれでもない、これでもないと見つめていた。

そしてついにこれぞまさしく母であるという写真を見つける。

 

それを見るなり、私はとっさにこう叫んだ。
《これこそ母だ!確かに母だ!ついに母を見つけた!》と。(p.123)

 

 

しかし、この写真とは、バルトがまだ生まれてもいない時代の写真、母の幼少期に温室で撮られた写真だったのである。(「温室の写真」)

この奇妙な現象を説明するために、この本は書かれたという。

 

そこで、バルトは写真(の部分・特徴)を2つに区別する。
ストゥディウム(studium)とプンクトゥム(punctum)である。

前者が一般的関心ともいえるもので、教養文化に基づいて思いを寄せることを示す。
バルトの想定するものとしては、歴史写真、民族誌学的写真に対する関心のようなもの。
「へえ、こんな時代はこんな服装していたんだ」「こんな地域にはこんな人がいるんだ」という感じか。

あるいはポルノ写真のように欲望を掻き立てるものも、文化的なものなのでこちらに入る。


一方で後者は、前者を突き破るものだという。
気になってしょうがないことによって享楽や苦悩を味わうもの。
そして、これは写真に写りこんだ「細部」によるものだと考える。

バルトはある家族写真(本にも掲載)がこちらに入るとして紹介している。
そしてその理由は、写真の中の女性が履いている「ベルト付きの靴」であるという。

これは個人の経験にもよるものでもある。
(ちなみにバルトは「私にとってしか母は見られない」として「温室の写真」は本に掲載していない。
←なんやそれ、見せてくれやと思うのですが)

このようにして、ストゥディウムとプンクトゥムの区別をしたわけであるが、これは共存しうるし、被写体に依存しているわけでもない。

と、ここまできたところで前半が終わり、後半はストゥディウムもプンクトゥムも言及されなくなってしまう。

後半はより写真を見る者一般について当てはまるように考えているのだが、上の区別も引き継いでいるように私には思う。

 

最後の章が面白くて、まとまっている。

 

社会は「写真」に分別を与え、写真を眺める
人に向かってたえず炸裂しようとする「写真」の狂気をしずめようとつとめる。
その目的のために、社会は二つの方法を用いる。
…以上が「写真」の二つの道である。「写真」が写して見せるものを
完璧な錯覚として文化コードに従わせるか、あるいはそこによみがえる
手に負えない現実を正視するか、それを選ぶのは自分である。(pp.142-146)

 

 

ここで本文は終わっている。
つまり、ざっくりと要約すると、写真は文化コードに沿ったものと、切実に自らに迫ってくるようなものがあって、それは人によっても変わってくるという感じか。

ここからは私見であるが、
これは近年の人類学でいう存在論的転回とも接合できるのではないかと思う。

というのも、バルト自身も写真の「存在論」を書きたかったとあるように、写真が自らに迫ってくるような場合、そのとき写真は人々に対して力を持っている、つまり、人々にとっての「存在」となっているといえるのではないか。

これは、写真が対象として観察されるのではなく、人々に何らかのことを働きかける力を持つことを意味している。そして、このように力を持っているということでエイジェント(準主体)といえるのではないだろうか。

 

こんな感じで考えられないかなと思っているこの頃です。
こういうこと書いていたら写真撮るほうも気になってきて、より平面的に細部を含むようなフィルム写真とかやってみようかなと思っているところです。

 

 

研究者の情報発信

はじめ、で情報発信について書いたにもかかわらず、かなり放置していたのは反省。

この前、そのことについて改めて感じる機会があったため、書きます。


今、人類学は他分野との相互交流が盛んに行われている(ようにみえる?あるいは以前から?)。
雑誌「現代思想」の人類学特集が昨年と今年の臨時増刊号として組まれていて、そこでは「人類学×哲学」、「人類学×美学」というように他分野との交流が企画されている。

そこで、哲学者の清水高志さんの論文が載っていて、ストラザーンなどの概念の整理が非常に参考になった。

そこで、いつもやるように名前で検索をかけてみると、twitterはやっているし、researchmapは顔写真付きで最新の業績まで詳しく載っているしで、感心した。

researchmapに顔写真せている人はほとんどいないし、業績を詳しく書いている人もそこまでいない。

毎回、論文を読もうと思ったり検索かけても、あまり整理された情報が出てこず、いろんな方法で経験的に探していくしかないということは、どうにかならないものかと考えていた。

そこで、彼のメディアの使い方は素晴らしいなと思ったわけです。


論文検索のほとんどがインターネットを使っている中で、いくら良い研究をしても、検索に引っかからなければそれは存在しないのと同じかもしれない。

現代に研究者としてやっていくためにはインターネットを使いこなすことが不可欠であろう。

 

 

現代思想 2016年3月臨時増刊号 総特集◎人類学のゆくえ

現代思想 2016年3月臨時増刊号 総特集◎人類学のゆくえ

 

 

 

現代思想 2017年3月臨時増刊号 総特集◎人類学の時代

現代思想 2017年3月臨時増刊号 総特集◎人類学の時代

 

 

ブログ移行 はじめに

gooブログから移行しました。最初の投稿はコピペします。

 

 

ここにきて、ブログを始めてみる。

なぜ、今これを始めるのか?


第一に自分の覚え書きのため
自分の考えていることの整理と記録、文章を書く練習をしたいから。
考えているだけではなく、文章として意味の通ったものにすることは意外と難しい。
今のところ研究職を目指していて、文章で表現しなければ評価もされないのが現実。
今では有名な人類学者も、学生時代にブログをやっていたりするから、それにあやかってみる。
といいつつ、くだらないことも書いていくつもりですが。


第二に情報発信とつながりのため
ここまでネットに大量の情報が流れていて日々自分が
それを享受しているのにも関わらず、自分は何も発信しないしコメントもしない。
以前どこかで極右の過激な書き込みをしたことがあるのは全体の4%しかいない
という記事を読んで、一部の書き込みが一般の意見であるかのように考えてしまうことは
非常に危険であるし、それならば自分も発信していかなければと思う。

まあ、そこまで大そうなことを言わないまでもニッチな学問分野であるし、
発信して誰かが見て、コメントくれたりすれば素敵だなと。
自分が中学生の時に、好き勝手書いたブログにクラスメートだけでなく、
顔の見えない常連が読んでくれていたみたいで、単純に嬉しかったことを思い出したこともあって。


という感じなので、気まぐれに、しかしときどき真面目に更新していけたらと思います。
よろしくお願いします。