Anthropology and feeling’s diary

人類学に関する本、日常で思ったことなど。

ロラン・バルトとクランベリーヨーグルト

 

 

明るい部屋―写真についての覚書

明るい部屋―写真についての覚書

 

 

前回のロラン・バルト『明るい部屋-写真についての覚書』は、最初この記事を書きたいがために書き始めたのだが、まとめているうちに内容の確認が必要になって、そのまま単なるまとめになってしまった。

ただ、言いたいのはこのことである。

 

前回の投稿で『明るい部屋』の最後の章「48 飼い慣らされた「写真」」でこんな一節がある。

写真を特徴づける、そして写真を他のものと区別する方法が、写真を一般化し、大衆化する方法であるとバルトは言う。

 われわれは一般的なものとなったある想像物に支配されて生きているのだ。たとえば、アメリカ合衆国では、あらゆるものがイメージに変換される。極端な例をあげるなら、ニューヨークのポルノショップに入ってみるとよい。そこに見出されるのは、悪徳ではなく、ただ単に悪徳の生き生きとした場景だけである…(中略)…。 そうした場所で自分の体を縛らせ鞭打たせている名もない個人…(中略)…は、自分の快楽がスレテオタイプ化した…(中略)…サド・マゾヒスト的イメージと合致しないかぎり、いわば快楽を感ずることができないのだ。(p.144)

つまり、アメリカ(それは例として挙げているだけで地理的な範囲は問題ではない)では、想像物でしかないイメージの中に人間が包み込まれている。

人間はその中でしか、欲望(この場合、性的欲求)を満たすことができない。

 

SMプレイにハマり込んでいる人にとっては、SMプレイという形式=イメージの中に身を置くことでしか、人間の本性的な(動物的?)欲求である性的欲求すらも満たすことができない。

 

ここまできて、これは極端な例であるのもあって、共感しつつも、どうかなーと思っていた。しかし、つい先日アメリカ合衆国に行く機会があって、そのなかで「あ、これだ!まさしくこれだ!」と思うことがあった。

それこそ、まさしくモーテルの朝食として乱雑に置かれていたクランベリーヨーグルトを開けた瞬間であった。

そのクランベリーヨーグルトは、驚くほどのピンク色をしていた。

重要なのは、ヨーグルトにクランベリーを入れることによってピンク色になるか、その是非ではなく、クランベリーヨーグルト=ピンク色というイメージである。

(ちなみに別の場所でブルーベリーヨーグルトを食べたときには薄ぼけた紫色であった)

つまり、クランベリーヨーグルト=ピンク色というイメージを我々は当たり前のものとして考えていて、逆に言うと、クランベリーヨーグルトがピンク色でないと、それではないような気がするのである。

だから、イメージの世界であるアメリカでは、クランベリーヨーグルト=ピンク色として人々は当たり前に食べて、そして、そうあることでしか「おいしさ」を感じることができない。

これは、先述のSMプレイの快感と何が異なるのか?同じである。 次元としては同じことである。

ここで、フィールドの経験と概念が接合される。

つまり、人々のイメージが人々を包み込むという概念がクランベリーヨーグルトを食べる経験によって体現された。

 

まったく事例が異なるように思っていても、日常の経験は概念と結びつく。これこそ、人類学の面白さなのかもしれない。と、無理にまとめてみた。以上。

 

ロラン・バルトの『明るい部屋』まとめ

人類学を標榜しておいて、ようやくの投稿が哲学者のロラン・バルトっていうのもあれですが…
まあ、読書日記も兼ねていることだし、考えたことなんで書こうと思います。


この前、別の場所で写真について考える機会があり、その際にロラン・バルトの写真論『明るい部屋 写真についての覚書』(花輪光訳、みすず書房)を読んだ。

 

 

明るい部屋―写真についての覚書

明るい部屋―写真についての覚書

 

 

とりあえずまとめてみます。

 

最愛の母を亡くしたロラン・バルトは、母の面影を探して家にある写真をあれでもない、これでもないと見つめていた。

そしてついにこれぞまさしく母であるという写真を見つける。

 

それを見るなり、私はとっさにこう叫んだ。
《これこそ母だ!確かに母だ!ついに母を見つけた!》と。(p.123)

 

 

しかし、この写真とは、バルトがまだ生まれてもいない時代の写真、母の幼少期に温室で撮られた写真だったのである。(「温室の写真」)

この奇妙な現象を説明するために、この本は書かれたという。

 

そこで、バルトは写真(の部分・特徴)を2つに区別する。
ストゥディウム(studium)とプンクトゥム(punctum)である。

前者が一般的関心ともいえるもので、教養文化に基づいて思いを寄せることを示す。
バルトの想定するものとしては、歴史写真、民族誌学的写真に対する関心のようなもの。
「へえ、こんな時代はこんな服装していたんだ」「こんな地域にはこんな人がいるんだ」という感じか。

あるいはポルノ写真のように欲望を掻き立てるものも、文化的なものなのでこちらに入る。


一方で後者は、前者を突き破るものだという。
気になってしょうがないことによって享楽や苦悩を味わうもの。
そして、これは写真に写りこんだ「細部」によるものだと考える。

バルトはある家族写真(本にも掲載)がこちらに入るとして紹介している。
そしてその理由は、写真の中の女性が履いている「ベルト付きの靴」であるという。

これは個人の経験にもよるものでもある。
(ちなみにバルトは「私にとってしか母は見られない」として「温室の写真」は本に掲載していない。
←なんやそれ、見せてくれやと思うのですが)

このようにして、ストゥディウムとプンクトゥムの区別をしたわけであるが、これは共存しうるし、被写体に依存しているわけでもない。

と、ここまできたところで前半が終わり、後半はストゥディウムもプンクトゥムも言及されなくなってしまう。

後半はより写真を見る者一般について当てはまるように考えているのだが、上の区別も引き継いでいるように私には思う。

 

最後の章が面白くて、まとまっている。

 

社会は「写真」に分別を与え、写真を眺める
人に向かってたえず炸裂しようとする「写真」の狂気をしずめようとつとめる。
その目的のために、社会は二つの方法を用いる。
…以上が「写真」の二つの道である。「写真」が写して見せるものを
完璧な錯覚として文化コードに従わせるか、あるいはそこによみがえる
手に負えない現実を正視するか、それを選ぶのは自分である。(pp.142-146)

 

 

ここで本文は終わっている。
つまり、ざっくりと要約すると、写真は文化コードに沿ったものと、切実に自らに迫ってくるようなものがあって、それは人によっても変わってくるという感じか。

ここからは私見であるが、
これは近年の人類学でいう存在論的転回とも接合できるのではないかと思う。

というのも、バルト自身も写真の「存在論」を書きたかったとあるように、写真が自らに迫ってくるような場合、そのとき写真は人々に対して力を持っている、つまり、人々にとっての「存在」となっているといえるのではないか。

これは、写真が対象として観察されるのではなく、人々に何らかのことを働きかける力を持つことを意味している。そして、このように力を持っているということでエイジェント(準主体)といえるのではないだろうか。

 

こんな感じで考えられないかなと思っているこの頃です。
こういうこと書いていたら写真撮るほうも気になってきて、より平面的に細部を含むようなフィルム写真とかやってみようかなと思っているところです。

 

 

研究者の情報発信

はじめ、で情報発信について書いたにもかかわらず、かなり放置していたのは反省。

この前、そのことについて改めて感じる機会があったため、書きます。


今、人類学は他分野との相互交流が盛んに行われている(ようにみえる?あるいは以前から?)。
雑誌「現代思想」の人類学特集が昨年と今年の臨時増刊号として組まれていて、そこでは「人類学×哲学」、「人類学×美学」というように他分野との交流が企画されている。

そこで、哲学者の清水高志さんの論文が載っていて、ストラザーンなどの概念の整理が非常に参考になった。

そこで、いつもやるように名前で検索をかけてみると、twitterはやっているし、researchmapは顔写真付きで最新の業績まで詳しく載っているしで、感心した。

researchmapに顔写真せている人はほとんどいないし、業績を詳しく書いている人もそこまでいない。

毎回、論文を読もうと思ったり検索かけても、あまり整理された情報が出てこず、いろんな方法で経験的に探していくしかないということは、どうにかならないものかと考えていた。

そこで、彼のメディアの使い方は素晴らしいなと思ったわけです。


論文検索のほとんどがインターネットを使っている中で、いくら良い研究をしても、検索に引っかからなければそれは存在しないのと同じかもしれない。

現代に研究者としてやっていくためにはインターネットを使いこなすことが不可欠であろう。

 

 

現代思想 2016年3月臨時増刊号 総特集◎人類学のゆくえ

現代思想 2016年3月臨時増刊号 総特集◎人類学のゆくえ

 

 

 

現代思想 2017年3月臨時増刊号 総特集◎人類学の時代

現代思想 2017年3月臨時増刊号 総特集◎人類学の時代

 

 

ブログ移行 はじめに

gooブログから移行しました。最初の投稿はコピペします。

 

 

ここにきて、ブログを始めてみる。

なぜ、今これを始めるのか?


第一に自分の覚え書きのため
自分の考えていることの整理と記録、文章を書く練習をしたいから。
考えているだけではなく、文章として意味の通ったものにすることは意外と難しい。
今のところ研究職を目指していて、文章で表現しなければ評価もされないのが現実。
今では有名な人類学者も、学生時代にブログをやっていたりするから、それにあやかってみる。
といいつつ、くだらないことも書いていくつもりですが。


第二に情報発信とつながりのため
ここまでネットに大量の情報が流れていて日々自分が
それを享受しているのにも関わらず、自分は何も発信しないしコメントもしない。
以前どこかで極右の過激な書き込みをしたことがあるのは全体の4%しかいない
という記事を読んで、一部の書き込みが一般の意見であるかのように考えてしまうことは
非常に危険であるし、それならば自分も発信していかなければと思う。

まあ、そこまで大そうなことを言わないまでもニッチな学問分野であるし、
発信して誰かが見て、コメントくれたりすれば素敵だなと。
自分が中学生の時に、好き勝手書いたブログにクラスメートだけでなく、
顔の見えない常連が読んでくれていたみたいで、単純に嬉しかったことを思い出したこともあって。


という感じなので、気まぐれに、しかしときどき真面目に更新していけたらと思います。
よろしくお願いします。