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Anthropology and feeling’s diary

文化人類学を学ぶ大学生が書いています。人類学に関する本、日常で思ったことなど。まだまだ勉強中なのでご教示ください。

『インディオの気まぐれな魂』Vol.2 他者ではなくて他者性 文化を捉え直す

前回が長くなってしまったため分けました。今回も最後まで行けなかった。

今回はp.31~p.52。インディオのヨーロッパ人への対処が構造主義的に分析されており、文化を捉え直しています。

 

 

インディオは宣教師たちに〈彼岸〉の情報を求めた。それは宣教師たちにとっては都合の良いことのように思われた。彼らは「確たる神をもたない」「白紙」(p.34)の状態であるため、神を信じさせることは容易に思われたからである。

 

インディオたちはキリスト教の終末観、最後の審判に驚嘆し、宣教師たちに長寿と健康を求め、宣教師が死を司るものとして畏れた。

 

ここで見られるようなインディオたちの言動を考えるにあたって次のようなことが言える。

 長寿、豊かさ、戦争での勝利―つまりは「悪なき大地」の主題である。イエズス会の司祭たちは、トゥピナンバにおけるシャーマン、カライバに同化されていた。この同化は、ヨーロッパ人が超自然的な力をもった人物として分類されたという文脈で読み解かなければならない。(p.39)

造化の神の名前「マイール」がフランス人を表す民族名であり、造化の神やシャーマン、文化英雄を表す「カライバ」が司祭のみならず、ヨーロッパ人一般を指示するようになった。

 

この「解釈」は隠喩以上のことである。(p.40)

つまり、フランス人を神に「例えて」いるだけではない。

 

ここではレヴィ=ストロースが分析した神話における主題について参考にできる。

人間の条件(社会的にして死すべき存在であること)が確立する、人間と文化英雄の区別、これに関わる神話的な母型がインディオとヨーロッパ人の区別を思考するのに役立ったのである。(p.41)

 

ここはがっつり構造主義かと思う。人間と文化英雄との違いは、インディオとヨーロッパ人の違いに当てはめられる。

(これは『森は考える』にも出てきた)

 

そしてインディオがヨーロッパ人に対する畏れはヨーロッパ人に対して崇拝(クルト…ここでは天上のもののように崇めるイメージか)を意味するものではない。

インディオにとって人間と神は実体としては同じであり、ある基準によって区別されたものである。

つまり、全くの「別物」(ここでVdCは「存在論的障壁」(p.45)という言葉を使っている)として、乗り越えられない絶対的な違いとしてヨーロッパ人があったわけではない。

 

むしろ、その違いを克服する可能性を持つ他者性を持つものとしてヨーロッパ人はあった。克服は婚姻によって行われるため、ヨーロッパ人に対して妹や娘を結婚相手として差し出すことがあった。そしてそれは「非常な名誉」である。

 

インディオにとっては関係的な親和性=婚姻関係(アフィニダージ)が肯定される価値としてある。

そして、このようにして他者を取り込み、自己に同一化させるという行為(食人を含む)をインディオは続ける。

 

ヨーロッパ人が崇拝されたのはまさしく「別の世界から」やって来たからであり、それゆえ外部性の使者であり、魂、死と親しいものであったからである。(p.48)

 

ここでVdCは「文化」についてこう述べる。

文化とは、一つの信念の体系ではなく、むしろ―それは何かでなければならないので―多様な伝統的内容を支持し、また新しい内容を吸収することのできる、経験の潜在的な構造化の総体である。すなわち、それは文化化する装置、あるいは信念を加工処理する構成的な装置である。(p.49) 

言い換えれば、「これはこれ」「あれはあれ」というように絶対的なものとして固定的に配置されたものを信じるのではなく、「こういうものはこう」「ああいうものはああ」というような関係性の把握、認識、想像、創造の仕方が文化である。

 

このようにしてヨーロッパ人を取り入れ「魂を売った」とさえ思えるインディオたちが戦争をやめなかった。

いや、逆である。戦争のために「魂を売った」のである。