Anthropology and feeling’s diary

人類学に関する本、日常で思ったことなど。

アネマリー・モル『多としての身体―医療実践における存在論』

 

多としての身体―医療実践における存在論 (叢書・人類学の転回)

多としての身体―医療実践における存在論 (叢書・人類学の転回)

 

 

授業で一度は読んだのですがちゃんと理解できてない部分が多い気がしたので、改めて読み返すがてらメモとしてまとめてみます。 用語については自分が理解しやすいようになるべく簡単にしています。

目次

日本語版への序文

はじめに

第一章 疾病を行う

第二章 様々な動脈硬化

第三章 調整

第四章 分配

第五章 包含

第六章 理論を行う

 

解説

医療人類学の本。オランダの大学病院で動脈硬化について1990年頃にフィールド・ワークを行った結果をつぶさに記述しながら理論を丁寧に浮かび上がらせる。そのため、もちろん具体的なことについて語られているのだが、語られている概念は医療に限定されない。

 

モルがブルーノ・ラトゥールやジョン・ローとともに提唱するアクター・ネットワーク理論(ANT)やマリリン・ストラザーンの概念を民族誌の中で丁寧に実践しているため非常に勉強になる。

 

またモル自身も読みやすいように心がけているし、翻訳者にも分かりやすさを優先させて欲しいとのことであるため、本文もストラザーンのように読みにくくないのが嬉しい。

 

※本書の構成について。上段に民族誌、下段に(少し小さめな字で)理論・文献について、というように分けて書かれている。これはモルが「どのように文献と関連づけるか?」(p.26)をもうひとつのテーマとして取り組み、これによって人類学を実践していくことを示している。往復しながら読むと理解が進む。

 

でははじめからまとめていく。 

 

「疾病」と「病い」の区別をやめる

パーソンズをはじめとするような、これまでの医療人類学、医療社会学は医療について「疾病」と「病いやまい)」に分けた。これは現在の研究でも用いられることが多い。

これはつまり「疾病」を生物医療のものとして、「病い」を生物医療以上のこととして区別することによって、社会科学が医療について語れるようになったことを示している。

簡単に言えば、病気について専門的なことは知らないけど、病気にまつわるような心理的・社会的な解釈(例えば、ガンになったら世界の見方が変わったとか、病人は社会ではこう扱われているとか)もできるよねという話。

 

しかし、この枠組みでは「疾病」について社会科学者が分析することができない。だからモルはこの枠組みを壊すために本書においては(医療人類学が通常使う「病い」ではなく)「疾病」を一貫して用いる。

 

(また、この区別について自然と文化の区別との類比から考えつつ、その区別がもはや有効ではないことを書いている。)

(この意欲的な試みは社会科学の「軟弱さ」みたいなものを払拭することができると思うので個人的には好きです。)

 

では、動脈硬化とは何か?

ここでモルは単独で普遍的に存在するような客体としての動脈硬化があるのではなく、様々な動脈硬化が実践のうちにそれぞれ存在していると観察する。

言い換えれば、動脈硬化はある条件が揃った条件において一つ一つある(being)のである。

逆に言えば、ある条件が揃わないときには動脈硬化などない。

 

モルはこれを一つ一つ丁寧に見ていく。

(患者の切断された足をモルは専門研修医と一緒に顕微鏡で覗く。研修医がいう)…内腔の周囲の最初の細胞の層が内膜だ。厚い。…ここからここまでだ。見て。あなたの探していた動脈硬化だ。これだ。内膜の肥厚。これがまさにそれだ。 それから、少し間をおいて、彼はつけ加えた。「顕微鏡の下に」。(pp.60-61)

ここでモルは最後の「顕微鏡の下に」に注目する。

私の試みは、この最後の補足にかかっている。・・・肥厚した内膜はもはや独力で存在しているわけではない。顕微鏡を通して存在している。(p.61) 

つまり、顕微鏡をはじめとした器具、それが可能になる場所がなければ動脈硬化はない。

通常、近代的な発想ではここで、元からあった動脈硬化に対して顕微鏡を通して発見したと考える。しかし、モルはそのように考えるのをやめる。顕微鏡がなければ内膜の肥厚=動脈硬化はどこにもないのである。

 

そして、ここでいう動脈硬化は、問診室で生きている患者に症状を教えてもらいながら、あるいは足を触りながら診断する動脈硬化とは似ても似つかない。

なぜなら生きた患者から血管を取り出すことができないため、血管の観察などできないからである。

 

もちろん、問診によって動脈硬化であると診断された患者が死に、検視をする際に足を切断して顕微鏡で視ることによって血管内膜の肥厚=動脈硬化が診断されることはある。しかし、この二つがかみ合わないこともよくある。

 

つまり、それぞれの実践に実在としての動脈硬化は依存しているのである。

 

このようにモノをはじめとする条件(=アクター)が組み合わされた場合に、動脈硬化があることについてモルは「実行する(enact)」という言葉で表現する。

 

このようにしてアクター・ネットワーク理論を提唱する。ある実践において、モノや行為、条件などのアクターがそれぞれに影響を及ぼしながら、つながりであるネットワークを作る。このネットワークに動脈硬化がある。

 

医療実践における存在(オントロジー)は特定の場所や状況に結び付いている。(p.92) 

 

顕微鏡で視るときには内腔の侵食と血管壁の肥厚であり、診察室では運動の後の痛みであり、歩行中の痛みである。

 

ここで重要なのは、いわゆる「主観」(例:痛み)や「事実」(例:肥厚)を同格のものとして考えることである。これらはどちらもそれを取り囲むような道具や数値、会話などがあるため、それぞれ一つの実践として成り立っている。

 複数の動脈硬化を調整する

では、このようにそれぞれある存在としての動脈硬化は全くバラバラなものとして病院にあるのか?いや、そうではない。

病院には異なる複数の動脈硬化が存在しており、それらは差異があるにも関わらず、複数の動脈硬化はつながっている。実行された動脈硬化は、一より多い―しかし、多よりは少ない。多としての身体は断片化されていない。…したがって、問われるべきなのは、これがどのようにして達成されているのかである。(p.92)

 

第三章ではこのように複数の動脈硬化が取りまとめられて扱われる方法について記述している。

モルによればその方法とは一つが加算すること、もう一つが較正されることである。

加算

二つの客体としての動脈硬化(ここでは検査結果)が一致しないとき(例:患者の歩行中の痛みにも関わらず、血圧には異常がないとき)は実践の内容の検討=括弧をはずす(例:血圧測定のプロセスについて考える)によって、片方の検査結果が勝つ(例:血管が石灰化しすぎていて圧迫ができなかったことが原因だと断定⇒痛みとしての動脈硬化が勝つ)。

これによって、患者は一つの動脈硬化をもつことになる。(p.108)

 

あるいは、二つの動脈硬化(ここでは歩行中の痛みと血圧の低下)が患者にある場合、二つの治療法(歩行療法とカテーテルを入れる手術)はそれぞれに対してしか効果を上げない。(この点で動脈硬化が二つ客体としてあることが再び示される。)

しかし、患者が「よくなる」という点を基準として打ち立てることで一つの動脈硬化として扱う。

ここでモルは「ラザフォードの成功の基準」を例に挙げる。これは歩行中の痛みの改善と血圧の低下のどちらもを患者の「よくなった」指標として考える基準である。これによって動脈硬化が単一性をもつとするのである。

この場合、動脈硬化が二つあることについてはそのままにされる。つまり複合的な客体となる(=パッチワーク:これはストラザーンの概念)。

較正

二つの検査結果(ここでは血管造影と超音波)が合わないときには、パラメーターを設定することによって、一方の結果がもう一方の結果として表現できるような(=翻訳)相関研究が示されることによって、比較が可能になる。

 

このようにして複数の動脈硬化が取りまとめられる方法について第三章で説明された。

しかし、別の場面を見てみると必ずしもそれぞれの動脈硬化は取りまとめられているわけではないことがわかる。

分配

むしろ、日常的な検査・治療における動脈硬化は「普遍・一般的」な動脈硬化が求められることもまれで、それぞれの条件(患者の状態、治療の方法…)に分配されている。

第四章ではその分配のされ方に四つの形式を挙げているが、最もわかりやすいのは治療の際の形式であろう。これがよく示された部分を引用する。

治療実践において、動脈硬化は、迂回されるもの、削り取られるもの、わきに押しやられるものの、いずれかの単一の実在にもならない。それら三つの実在のすべてである。しかし、三つ同時にではない。それらの実在は、異なる患者集団に、適応基準に従って分配されている。(p.154) 

 

ここで「迂回されるもの、削り取られるもの、わきに押しやられるもの」としているのは手術の方法のそれぞれパイパス手術、動脈内膜切除手術、カテーテル手術を示しており、実践において扱われる(処置される)という意味での客体=対象としての動脈硬化はそれぞれの患者の状態によって当てはまる(=分配)。

 

このように、全てを統合するような一つの実在としての動脈硬化は実践においてはなく、それぞれに割り当てられている。

しかし、医師たちはあくまで「動脈硬化」という言葉をすべてに対して用いる。この言葉こそがそれぞれを架橋し、取りまとめるメカニズムであるとモルはこの章を締める。

 

包含

第五章では、それぞれの実在としての動脈硬化同士の関係について記述している。

この関係とはどちらかが大きい、小さいという推移的な(transitive)関係ではなく、非推移的な(intransitive)関係である(p.173)。

例えば、人口学的な統計としての動脈硬化は個人の動脈硬化の集まりによって示されるが、逆に個人の動脈硬化の基準(コレステロール値の正常値)は人口学的な統計から示される。

このように見れば、どちらかが大きい、小さいという関係、つまりどちらかがどちらかを包むというような全体性は想定ではない。

むしろ、それぞれの実践は隣り合っていて、スイッチのように切り替えられるものであるが、互いに包含し合っている。

そしてそこには摩擦があるような緊張関係も存在する。

 

理論を行う―オープン・エンド

さて、ようやく最終章「理論を行う」。

上記のように本書では疾病について書くということを行ってきたがここでモルは結論を書かない。

しかし、これは何をしたことになるのだろうか?この記述とともに行われたことは、何だろうか?本書の物語は、最終的に医療実践についての真実を明らかにするものではない。(p.213)

通常の本としては、ある真実について明らかにするということが目的として考えられており、その真実について、いかに「正確に」記述するかによって本の価値が決まると思われる。

しかし、モルはこのこと自体について疑問を呈している。

これは間違いなくポストコロニアル論争に対しての一つの提示である。

本書は、脱身体化された思考から離れて、さらなる一歩を進んでいる近年の研究潮流の一部である。これは客体を見ようとするまなざしを追うことを止めて、代わりに客体が実践のなかでまさに実行されているさまを追うことを意味する。つまり、強調点が移行している。観察者の目の代わりに、実践者の手が、理論化の焦点となるのだ。(p.215) 

 

知識はもはや、実在についての言表ではなく、他の実践に干渉する一つの実践だとされる。こうして知識は実在に参与する。(p.215)

このような意味で、最終章のタイトルは「理論を行う」なのである。

では、このように実践への転回を経た今、実在について「いかに確信できるか?」ではなく「いかに疑いとともに生きるのか?」が問いとなってくる。(p.230)

このようにして(学問、研究において)「何をすべきか」という問いが、もはや「何がリアルなのか」に依拠しないのであれば、「この実践はそこに関わる主体(人間であれそれ以外であれ)にとってよいか?」という問題が重要になってくるという。

つまり、善がより意味のあるものになってきたとして、231頁以降は(又聞きかつ未読なので確かではありませんが)2008年のThe Logic of Careにつながる話が書かれている。(『多としての身体』の原著は2002年)

最終的な結論がなくとも部分的=党派的(パーシャル)であることは可能であり、オープン・エンドであることは固定化を意味しない。(p.254)

 

さいごに

では、長くなりましたが感想として一言だけ。

実践について詳細に分析することで理論を丁寧かつ実証的に記述しているのはさすがという感じ。そして、本書も一つの実践として考えることで新しい民族誌の可能性について提示しているという意味で人類学にとっては希望の書ではないだろうか。

 

以上です。間違っているところなどありましたらコメントください。