ロラン・バルトの『明るい部屋』まとめ
人類学を標榜しておいて、ようやくの投稿が哲学者のロラン・バルトっていうのもあれですが…
まあ、読書日記も兼ねていることだし、考えたことなんで書こうと思います。
この前、別の場所で写真について考える機会があり、その際にロラン・バルトの写真論『明るい部屋 写真についての覚書』(花輪光訳、みすず書房)を読んだ。
- 作者: ロランバルト,Roland Barthes,花輪光
- 出版社/メーカー: みすず書房
- 発売日: 1997/06
- メディア: 単行本
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とりあえずまとめてみます。
最愛の母を亡くしたロラン・バルトは、母の面影を探して家にある写真をあれでもない、これでもないと見つめていた。
そしてついにこれぞまさしく母であるという写真を見つける。
それを見るなり、私はとっさにこう叫んだ。
《これこそ母だ!確かに母だ!ついに母を見つけた!》と。(p.123)
しかし、この写真とは、バルトがまだ生まれてもいない時代の写真、母の幼少期に温室で撮られた写真だったのである。(「温室の写真」)
この奇妙な現象を説明するために、この本は書かれたという。
そこで、バルトは写真(の部分・特徴)を2つに区別する。
ストゥディウム(studium)とプンクトゥム(punctum)である。
前者が一般的関心ともいえるもので、教養文化に基づいて思いを寄せることを示す。
バルトの想定するものとしては、歴史写真、民族誌学的写真に対する関心のようなもの。
「へえ、こんな時代はこんな服装していたんだ」「こんな地域にはこんな人がいるんだ」という感じか。
あるいはポルノ写真のように欲望を掻き立てるものも、文化的なものなのでこちらに入る。
一方で後者は、前者を突き破るものだという。
気になってしょうがないことによって享楽や苦悩を味わうもの。
そして、これは写真に写りこんだ「細部」によるものだと考える。
バルトはある家族写真(本にも掲載)がこちらに入るとして紹介している。
そしてその理由は、写真の中の女性が履いている「ベルト付きの靴」であるという。
これは個人の経験にもよるものでもある。
(ちなみにバルトは「私にとってしか母は見られない」として「温室の写真」は本に掲載していない。
←なんやそれ、見せてくれやと思うのですが)
このようにして、ストゥディウムとプンクトゥムの区別をしたわけであるが、これは共存しうるし、被写体に依存しているわけでもない。
と、ここまできたところで前半が終わり、後半はストゥディウムもプンクトゥムも言及されなくなってしまう。
後半はより写真を見る者一般について当てはまるように考えているのだが、上の区別も引き継いでいるように私には思う。
最後の章が面白くて、まとまっている。
社会は「写真」に分別を与え、写真を眺める
人に向かってたえず炸裂しようとする「写真」の狂気をしずめようとつとめる。
その目的のために、社会は二つの方法を用いる。
…以上が「写真」の二つの道である。「写真」が写して見せるものを
完璧な錯覚として文化コードに従わせるか、あるいはそこによみがえる
手に負えない現実を正視するか、それを選ぶのは自分である。(pp.142-146)
ここで本文は終わっている。
つまり、ざっくりと要約すると、写真は文化コードに沿ったものと、切実に自らに迫ってくるようなものがあって、それは人によっても変わってくるという感じか。
ここからは私見であるが、
これは近年の人類学でいう存在論的転回とも接合できるのではないかと思う。
というのも、バルト自身も写真の「存在論」を書きたかったとあるように、写真が自らに迫ってくるような場合、そのとき写真は人々に対して力を持っている、つまり、人々にとっての「存在」となっているといえるのではないか。
これは、写真が対象として観察されるのではなく、人々に何らかのことを働きかける力を持つことを意味している。そして、このように力を持っているということでエイジェント(準主体)といえるのではないだろうか。
こんな感じで考えられないかなと思っているこの頃です。
こういうこと書いていたら写真撮るほうも気になってきて、より平面的に細部を含むようなフィルム写真とかやってみようかなと思っているところです。
研究者の情報発信
はじめ、で情報発信について書いたにもかかわらず、かなり放置していたのは反省。
この前、そのことについて改めて感じる機会があったため、書きます。
今、人類学は他分野との相互交流が盛んに行われている(ようにみえる?あるいは以前から?)。
雑誌「現代思想」の人類学特集が昨年と今年の臨時増刊号として組まれていて、そこでは「人類学×哲学」、「人類学×美学」というように他分野との交流が企画されている。
そこで、哲学者の清水高志さんの論文が載っていて、ストラザーンなどの概念の整理が非常に参考になった。
そこで、いつもやるように名前で検索をかけてみると、twitterはやっているし、researchmapは顔写真付きで最新の業績まで詳しく載っているしで、感心した。
researchmapに顔写真せている人はほとんどいないし、業績を詳しく書いている人もそこまでいない。
毎回、論文を読もうと思ったり検索かけても、あまり整理された情報が出てこず、いろんな方法で経験的に探していくしかないということは、どうにかならないものかと考えていた。
そこで、彼のメディアの使い方は素晴らしいなと思ったわけです。
論文検索のほとんどがインターネットを使っている中で、いくら良い研究をしても、検索に引っかからなければそれは存在しないのと同じかもしれない。
現代に研究者としてやっていくためにはインターネットを使いこなすことが不可欠であろう。
- 作者: 中沢新一,山極寿一,Ph・デスコラ,T・インゴルド,A・ツィン,出口顯,箭内匡,大村敬一,石倉敏明,近藤宏,清水高志,柳澤田実,岡本源太
- 出版社/メーカー: 青土社
- 発売日: 2017/02/03
- メディア: ムック
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ブログ移行 はじめに
gooブログから移行しました。最初の投稿はコピペします。
ここにきて、ブログを始めてみる。
なぜ、今これを始めるのか?
第一に自分の覚え書きのため
自分の考えていることの整理と記録、文章を書く練習をしたいから。
考えているだけではなく、文章として意味の通ったものにすることは意外と難しい。
今のところ研究職を目指していて、文章で表現しなければ評価もされないのが現実。
今では有名な人類学者も、学生時代にブログをやっていたりするから、それにあやかってみる。
といいつつ、くだらないことも書いていくつもりですが。
第二に情報発信とつながりのため
ここまでネットに大量の情報が流れていて日々自分が
それを享受しているのにも関わらず、自分は何も発信しないしコメントもしない。
以前どこかで極右の過激な書き込みをしたことがあるのは全体の4%しかいない
という記事を読んで、一部の書き込みが一般の意見であるかのように考えてしまうことは
非常に危険であるし、それならば自分も発信していかなければと思う。
まあ、そこまで大そうなことを言わないまでもニッチな学問分野であるし、
発信して誰かが見て、コメントくれたりすれば素敵だなと。
自分が中学生の時に、好き勝手書いたブログにクラスメートだけでなく、
顔の見えない常連が読んでくれていたみたいで、単純に嬉しかったことを思い出したこともあって。
という感じなので、気まぐれに、しかしときどき真面目に更新していけたらと思います。
よろしくお願いします。