国家・権力・知 萱野稔人『権力の読みかた―状況と理論』
フランス哲学を専門とする萱野稔人がフーコーの権力論について非常にわかりやすく解説しながら世界で起こっている状況を分析していく。
国家とは何か、権力・知とは何かということについてのフーコーの議論を学ぶにはとてもよかった。
目次
序論 国家権力とフーコー権力論のあいだ
状況1 テロリズムと主権国家の郊外
構造改革をつうじた権力の再編成―新しい理研の回路と暴力の図式
状況2 郊外と〈第三世界〉の拡大
ナショナリズムの逆説
ポピュリズムのヨーロッパ
理論 フーコーの方法
整理
まず、国民に対する暴力を合法的に独占することができる権力の組織として国家を考える。これはウェーバーの国家論に倣っている。
また、暴力を権力源泉にするためには組織化(=脱人格化)が必要であるというのはアーレントの理論。
この二つの権力論のあいだで活動するのが国家である。
ところで、フーコーが一望監視装置(パノプティコン)から指摘したように、身体に対して作用する特定の関係性を支えるよなテクノロジーのことを「身体の政治的テクノロジー」という。そして、これは権力を支える。
以上のような権力論をもとに国家について考えると、
暴力について合法的に独占できる組織化された国家は、国民の支配の源泉であるがリスクを伴う暴力を極力見えないようにするために、そのための技術である「身体の政治的テクノロジー」を用いる
ということができる。
これを頭に入れた状態で現在の状況(テロリズム、ポピュリズム、ナショナリズム、郊外…)を見ると、より深く分析ができるというのが「状況」の部分。
(しかし、社会学・人類学などからの事例分析に関する引用がないのはやや説得力に欠けるが)
最後の「理論」では改めてより詳細にフーコーの権力論およびそれに関するドゥルーズの解釈を紹介している。
そこで特に権力と知の関係について分析を深める。
通常、権力と知(例えば医学)は独立して存在するように考えるが、そんなことはない。
だからといって、一方が他方を規定するのかということでもない。
フーコーのいう権力は主観によるものではないため誰が誰にというような人称的なものではなく、常に行使という関係性のなかで考えなければならない。
そして、行使という作用の中には知が必要であり、この二つは連関関係にある。
このように「知と権力によってくみたてられる編成システムを、フーコーは「身体の政治的テクノロジー」と呼ぶ」(p.172)
また、言説は様々な物事を知の価値づけによって編成しているように、それ自体が権力の体現でもある。本文が分かりやすい
権力と知は、協働しながら社会的な実践領野を編成する。言説の編成は、形態化された力の関係において展開されることで、その協働を体現するのである。(p.194)
この話は科学技術論とも親和性が高い気がした。
少しフーコーが分かったかも。