Anthropology and feeling’s diary

人類学に関する本、日常で思ったことなど。

『森は考える』における思考・精神とは おじさんは何故わざわざ遠くからカモメに餌をあげたのか。

 

森は考える――人間的なるものを超えた人類学

森は考える――人間的なるものを超えた人類学

 

 

はい、『森は考える』です。

 

この本かなり売れているらしくて、人類学に興味を持ってくれる人が多くなればいいと思うのですが…民族誌的な記述を切り口の鋭さが非常に美しく整えていて普通に面白い。ただ、パースの記号論やスタンリー・カヴェルの「魂=盲」は難しくて正直半分くらいしか理解した気がしません。

 

熊本大学での集中授業の様子が詳細に記録されているブログなどあるようなので詳しい内容については検索してみてください。

また、この今回の記事にも参考にしたのですが、現代思想の人類学特集号にも翻訳者である奥野さんが書いた「『森は考える』を考える」が載っており、非常に簡潔にまとめられているのでご参考までに。

 

現代思想 2016年3月臨時増刊号 総特集◎人類学のゆくえ

現代思想 2016年3月臨時増刊号 総特集◎人類学のゆくえ

 

 

まあということなので、今回は自分の復習も兼ねつつ「思考」ということにポイントを絞って、経験と組み合わせながら書いてみたいと思います。

(本当はこれが一番メインの部分なのかもしれませんが)

 

まず、著者であるコーンは、人間の言語を記号のモデルであるソシュール記号論ではなく、記号についてそれが何であるか、どんな存在者がそれを扱うのかということについて不可知論的な立場をとるパースの記号論を採用する。

このことによって私たちは記号をより広くとらえることができるという。

この記号のより広い定義には、ご存知の通り、記号が人間的なるものを超えてもつ生命に、私たちが慣れ親しんでゆく助けとなる。(コーン p.55)

 そして、このアプローチを

「人間的なるものを超えた人類学」(コーン p.18)

 と名付けることができるとする。

 

すなわち、人間だけが記号を扱うことができると考えるのではなく、様々なものを含めて記号を扱うと考える。

ここでの記号、あるいは記号過程とは、何かが何かを表すことを示す。

例えば、奥野さんがまとめているように

南米・アマゾニアの森の中で、近くでヤシの木の倒れる音は、記号として樹上にいるウーリーモンキーに危険が差し迫っていることを知らせる。ウーリーモンキーは、その轟くような激しい音に生命の危険を感じて、その場から飛び退くであろう。(奥野 p.214) 

このとき、ウーリーモンキーは、木の倒れる音を身の危険についての記号として受け取り、それによって逃げる。

つまり、木の倒れる音はウーリーモンキーにとって身の危険を表す記号となる。

 

このようにして民族誌の中ではアリクイとアリの話やインコと案山子の話など、アマゾンにアヴィラの人々とともに棲むものたちの記号の在り方が出てくる。

 

コーンは記号をこのように捉えることを前提として考察を深めていく。イコン、インデックス、象徴…(このあとは自信ないです。) 

 

(そしてここからが自己・思考について)

というように記号を捉えなおしたうえで、記号と自己や思考について以下のように考える。

記号は精神に依存しない。むしろ逆である。私たちが精神あるいは自己と呼んでいるものは、記号過程から生じる。倒壊するヤシを意味あるものと見なすその「誰か」は、人間であれ非人間であれ、この記号とそれに似た多くのほかのものの「解釈」のための座となる―どれほどはかないものでも―おかげで、「時間の流れにおいてちょうど生まれたばかりの自己」である。(コーン p.64)

つまり、「ホムンクルスの誤謬」(心あるいは頭には小人がいて、人間の思考はその小人が思考・判断することによって行われると考えること。しかし、これはその小人の思考・判断は誰かという問いに小人の中の小人がいるというように無限に繰り返すことしかできない。) に陥ることなく、思考について考えることを目指す。

私たちは特に思考について考えるときに、何か精神=小人のようなものがあってそれが判断すると考えがちである。

しかし、このように考えたところで、その精神の説明をしたことにはならない。

コーンはパースに倣って、 精神を逆から考える。

つまり、精神があるのではなく、何かが何かを表すというその記号過程に精神を想定する。

精神が世界から切り離されていると考えること(デカルトのいう「我思う、故に我あり。」的な?)を拒否し、精神とはまさに世界から「ちょうど生まれたばかり」(コーン p.64)であると考える。

この逆転の発想は非常に刺激的かつ、説得的で面白い。

 

で、ここでようやく表題「おじさんは何故わざわざ遠くからカモメに餌をあげたのか。」に入る。

 

状況を説明すると、この前天気が良かったので家の近くの海にサイクリングをしにいき、堤防でぼーとしていると、地元の人っぽいおじさんが堤防に自転車を漕いでふらっとやってきて、カモメの群れが休んでいるのを見ると、一度引き返して少し離れたところで餌を投げ始めた。

カモメたちはそれを見るなり、続々とおじさんのほうへ向かって飛んできて餌をつついた。

 

ここで、私の中には一つの疑問がわいた。「おじさんは何故わざわざ遠くからカモメに餌をあげたのか?」近くであげればいいものの、なぜ離れたところからあげたのか。

 

そして、『森は考える』の上記のようなことを思い出し、おじさんにとってカモメの思考について思いを巡らすことができた。

 

すなわち、おじさんは、カモメたちが餌あるいはおじさんの登場を記号として受け取り、それをダイナミックな形で表現するように自らに向かって飛んでくることを願ったのである。

この工程によってカモメには思考・精神が「ちょうど生まれた」状態になった。

 

私自身もカモメに内在的な精神があるとは普段思わないが、この餌やりの光景にはカモメの精神を感じた。

 

「これこそが精神だ」私はそう思ったのである。そしておじさんもそれを感じるために餌やりをしにくるのではないだろうか。

 

カモメ、ハト、猫…いろんな動物にエサをやる人がいるが、その人たちの多くがそのものたちの思考・精神ひいては生命を感じたいがために餌をやっている部分があると私は思う。なぜなら、生命を感じることを喜びであるからだ。

 

そして、そのものたちがそれをダイナミックに表現するのを感じたいために様々な工夫を凝らす。猫に餌をあげるおばさんも口笛などで隠れている猫をおびき寄せる。

 

このように私たちは他の人やものの思考や精神、生命を感じ、感じたいと思っているのではないだろうか。

 

餌やりもこのように考えると面白いですね。終わり。

 

参照文献

奥野克己 2016 「『森は考える』を考える」『現代思想三月臨時増刊号』44(5)、pp.214-225。

コーン、エドゥアルド 2016 『森は考える ―人間的なるものを超えた人類学』奥野克己・近藤宏(訳)、亜紀書房