Anthropology and feeling’s diary

人類学に関する本、日常で思ったことなど。

アーサー・クラインマン編『他者の苦しみへの責任 ソーシャル・サファリングを知る』

 

他者の苦しみへの責任――ソーシャル・サファリングを知る

他者の苦しみへの責任――ソーシャル・サファリングを知る

 

医療人類学者を中心に6つの論文集を収録したもの。(原書は15の論文が収録されていたが、翻訳の段階で6つに絞ったらしい。)

以前から存在は知っていたが、たまたま古本屋で見つけたので買ってみたが、非常に興味深い論文ばかりで、自分としては今まで読んだ論集の中で一番かも。

 

翻訳本のタイトルとはかなり様子が違うが、原著のタイトルはSocial Sufferingなので、この概念について様々な視点から様々な事例をもとに捉えようとしている。

 

目次

序論 アーサー・クラインマン、ヴィーナ・ダス、マーガレット・ロック

  • 遠くの苦しみへの接近とメディア
     「苦しむ人々・衝撃的な映像―現代における苦しみの文化的流用」
      アーサー・クラインマン、ジョーン・クラインマン
  • 声なき者の表現を掘り起こす/インド・パキスタン
     「言語と身体―痛みの表現におけるそれぞれの働き」
      ヴィーナ・ダス
  • トリアージの必要を問う「極度の」苦しみ/ハイチ
     「人々の「苦しみ」と構造的暴力―底辺から見えるもの」
      ポール・ファーマー
  • 医療テクノロジーと人権/日本
     「「苦しみ」の転換―北米と日本における死の再構築」
      マーガレット・ロック
  • 移民の苦しみのありか/スリランカ・英国
     「悩める国家、疎外される人々」
      E・ヴァレンタイン・ダニエル
  • 抑圧装置の解体
     「拷問―非人間的・屈辱的な残虐行為」
      タラル・アサド

 

序論ではソーシャル・サファリングという概念について説明する。

様々な不幸、苦しみに対して従来の二分法―社会と個人、健康問題と社会問題、経験と表象、苦しみと介入など―を排除して考えなければならない。

苦しみが社会的であるとともに、個人的であるであるということを忘れ、そのどちらかの側面だけを捉えた場合、他者の苦しみについて知ることはできない。

ソーシャル・サファリングを知るために、このような二分法を超えたところに各論文は位置しているという。

 

各論文はそれぞれケビン・カーターの写真にまつわる表象と消費の問題、痛みということに関するヴィトゲンシュタイン言語哲学的なアプローチ、究極的な苦しみを経験するハイチの人びとと構造的暴力について、脳死と臓器移植にまつわる死の問題が北米と日本ではどう違うのか、タミル移民と国家についての記述、拷問という行為に関する考察で、どれも眼を背けたくなるほどの苦しみがあるが、それに正面から向き合う。

 

ともするとこんな世界のどこかの他者の苦しみなど関係ないと言ってしまうかもしれない。

しかし、本書を読めば決してそんなことはないといえるだろう。クラインマンの他の編著もいくつか翻訳が出ている。

 

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