Anthropology and feeling’s diary

人類学に関する本、日常で思ったことなど。

どのように他者に共感できるのか? 映画「トトとふたりの姉」

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映画『トトとふたりの姉』劇場予告編

 

先日、「トトとふたりの姉」という映画を観てきた。この映画を通してどのように他者に共感できるのかについて考えてみたい。

あらすじ

ルーマニアの貧しいロマ(ジプシー)・コミュニティの中で、トトと2人の姉は3人で暮らしていた。というのも、母親はドラックの売人をしていて刑務所で服役しており、父親は顔すら知らないからだ。おじが時々、食事を持ってきてくれるが同時にドラッグ仲間を連れてきて溜まり場になってしまう。

3人は喧嘩をしながらも一緒に暮らし、何度も生活を立て直そうと掃除をしてもすぐにドラッグ常習者の溜まり場に後戻りし、一番上の姉であるアナもドラッグに手を染めることになる。

そんなある日の早朝、警察の強制立ち入りが行われアナを含んで部屋にいた人は逮捕される。トトと2番目の姉であるアンドレアは周囲の人の勧めもあり、孤児院に入って自分の暮らしをやり直そうとする。

トトは児童クラブのダンススクールを励みに取り組み、アンドレアは監督からカメラを渡されて独白をしながら気持ちの整理をしていく。

アナも出所後、二人に合流して孤児院で生活しようと試みるが、ドラッグの生活に戻ってしまう。母親は7年の刑期を終えて家に戻るが、トトとアンドレアは母親と暮らす気はもうなかった…。

 

他者化と共感 ―このような映画を見る意味とは?

映像の中では、極度の貧困や使い回された注射器で首の血管にドラッグを注射する様子が映し出されるなど、ルーマニアにこんな現実があるのには驚きだった。(日本にもこのような場所はあるかもしれないが)

しかし、このような中でもトトとアンドレアは懸命に生きている。「生きることは戦いよ」と児童クラブの先生が言ったように。

 

全く行ったことも見たこともないような離れた地に、自分とは全く違うような生活をしているトトたちにどのように共感できるのだろうか。

この映画を「可愛そうな異国の少年の話」として考えてしまっていては「ルーマニアは酷い。でも、この少年は無邪気ながらに頑張っている。」というように見てしまう。

しかし、それではダメだ。そのような他者化は「ルーマニアのあの地域に生まれなかった自分は恵まれている」という風にもなりかねない。自分に差し迫った形での共感はここにはない。

では、どうするのか?

ある部分(置かれた状況)では自分とトトが同じであると構造的に考えることであろう。これは結構難しい。特に、社会的な背景などの説明がない映像作品ならば。

しかし、逆に映像作品による別の共感の仕方もある。

それは、映像として映し出すことによって、その映りこんだ何気ない部分に圧倒的な存在を感じ、自分も同じ人間なのだというような共感をすることがある。

これは以前書いたロラン・バルトの写真論とも共通すると思う。*1

その部分が(私にとっては)トトの下向きの眉毛であったり、アンドレアの肌の質感であったりする。

このような方法の共感の在り方もある。そこに映像としての意味があるのかもしれない。だからドキュメンタリーは映画館で見るといいと思った。

 

観た皆さんはどうでしたか?どこから共感しましたか?