世界の断片 ―空手家の写真集 岸政彦『断片的なものの社会学』
世界は断片だ。
しかし、こういうと「日常の些細なことにこそ目を向けろ」というようなよくあることのように聞こえるかもしれない。
いや、違う。
世界は断片的であって、ただそれだけ。本当に、ただそれだけ。
わたしたちはどうしても全てのものが、一貫した体系のようなものに収束していくような仕方で世界を認識する。
特に社会学や人類学などの「学問」をやっている人はこのような思考の仕方をする癖がある。もちろんそれは社会について形のあるものとして論文や何かに書かなければいけないからでもある。
しかし、その時に取りこぼすような様々なものを「社会になかったもの」にしてしまっているのではないか。
だから、ある意味この本は「社会学」ではないし、逆に社会学でもある。
体系的な形をとっていないけれども、社会について目を向けているからである。
小説や音楽や映画など、これについて示唆することはあるけれど、このような社会学の名を冠した形で表されたものを私は知らない。
だからこのような「まとまった」形のものと出会えてよかった。
いや、「まとまって」いてはダメなのか。この本も一つの断片として世界に存在しているのかもしれない。
この本を読んでいて思い出した子供のころの断片を一つ。
父はあまり本を読まない人であるため、昔住んでいたアパートには父の本らしきものはほとんどなかったように思う。
ただ、一冊だけ父のものらしいのがあったのを覚えている。
それは、緑色のチラシを自作のブックカバーにして、その上にタイトルが油性マーカーで几帳面に書かれた、ある空手家の写真集であった。
角が折れた牛を縄で制しながらカメラに向かって顔を向ける髪の薄くなった空手家を、怖いとも格好いいとも思わず何度も見た。少しだけ牛がかわいそうだった。
知っている人は知っているだろう。アニメ化もされた大山倍達である。
父は以前に空手をやっていたことは自慢していたが、詳しい話は聞いていなかった。
幼い日の僕は父が空手をやりながらこの人に憧れている姿を想像しながらこの本を読んでいた。
それから時間が経ち、そんなことも忘れていたが、この間沢木耕太郎の『深夜特急』を読んでいたら、著者がスペインかどこかで空手少年たちと会い、牛を倒す空手家について知っているかと聞かれた話が載っていて、急に思い出してスマホで調べた。
そして何となく、流行りモノが好きな父は一時期の流行りでこの本を買っただけかもしれないかもしれないなと思った。そして一時期は憧れながらも飽きて子供の手の届くところに放置していたのかもしれない。
しかし、父はこの空手家が日本領時代の韓国出身であるという複雑な経歴を知っていたのであろうか。