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Anthropology and feeling’s diary

文化人類学を学ぶ大学生が書いています。人類学に関する本、日常で思ったことなど。まだまだ勉強中なのでご教示ください。

『インディオの気まぐれな魂』Vol.1 「気まぐれ」から宗教と「文化」について考える。

 

インディオの気まぐれな魂 (叢書 人類学の転回)

インディオの気まぐれな魂 (叢書 人類学の転回)

 

 通称「赤い本」。「人類学の転回」のシリーズでストラザーンの『部分的つながり』やモルの『多としての身体』ほか現代の人類学において重要な論者の翻訳を出している。

 

本書の著者であるヴィヴェイロス・デ・カストロ(以下VdC)はアマゾンにおける世界の在り方をパースペクティヴィズム(Perspectivism)として説明し、それを西洋における世界の在り方と対比させていることで有名。

 

本書にもパースペクティヴィズムが出てくるかと期待していたが出てこなかった。

 

しかし、人類学における記述の問題(誰が文化を書くのか)や政治的な立ち位置を意識しているだろうことはよく分かり、興味深い。(このことに関しては訳者解説に詳しい)

 

というのも、本書が民族誌的データとして取り上げているのは、アメリカ大陸「発見」以後の16世紀から17世紀にかけて行われたイエズス会宣教師による活動の記録だからである。

先住民ではない者が彼らに接触した際に感じることは、数百年の年月が流れた現在のフィールドワークの際にも同じように感じることが多い。しかし、VdCは宣教師とは全く異なった視点で彼らについて分析を施す。本書の中で行われる分析、インディオに接した宣教師の視点自体を分析すること、この行為自体が文化を書くとはどのようなことなのかについて真摯に向き合っているのではないだろうか。

 

本書の構成は「一六世紀ブラジルにおける不信仰の問題」「トゥピナンバはいかにして戦争に負けた/失ったか」の二本立てで、前半は宣教師による布教活動の記録からインディオの気まぐれさについて考えられており、後半は布教の失敗の原因でもありインディオの社会において基礎的な意味を持つ戦争、復讐がどのようにして行われないようになったのかを示している。

 

では、さっそくまとめと解釈。(Vol.1は始めからp.30までです。)

 

先述の通り、本章にはテキストとして宣教師による布教の記録が掲載されており、それによって当時のインディオの姿が描かれている。

それには先住民たちが、いとも容易くキリスト的な神を信じ、救いを求めていたはずが、その特有の「気まぐれさ」によって態度を変え、すぐに(宣教師のいうところの)「悪習」―食人と復讐のための戦争、酒盛り、一夫多妻、裸でいること…―に戻ってしまうということが記述されている(時々完全なる愚痴)。例えば以下のようなものがある。

「私が彼らのうちに見出した最大の困難が何かご存知か?誰に対してもはい、あるいはパと、すなわち、仰せの通りに、と言うことに気がねがないことだ。彼らはあらゆることにすぐ賛成し、そしてパ[はい]というのと同じような気軽さで、アアニ[いいえ]と言うのだ……」(p.20)

宣教師たちにとって、インディオの問題とは活力のない意志と、(キリスト教と対立する独自の教義のようなものではなく)「悪習」にあるとする。

そして、インディオを改宗させるためには福音を説くことではなく「文明化」をすることが必要であると考えた。

 

このような宣教師たちの在り方をまとめたうえで、VdCは次のように本書の関心を明記する。

私が関心をもっているのは単に、イエズス会士やその他の観察者たちが、トゥピナンバにおける「気まぐれさ」と呼んだものを解明することだけである。それは、別の呼び名がふさわしいかもしれないが、疑いなく現実の何かに対応している。それは、存在することの様式でなければ、宣教師たちの目にトゥピナンバの社会が現れることの様式であった。この様式を、インディオイデオロギー過食症という、より広い枠組み、つまり、神、魂、そして世界に関するキリスト教的な知らせに耳を傾け、それらを消化吸収した際のあの強烈なまでの好奇心のうちに位置付けることが必要である。(p.23)

つまり、宣教師たちが感じた「気まぐれさ」について着目し、インディオの枠組みに再接合することを目的とするのである。

 

 VdCインディオの「気まぐれさ」を考えるうえで、西洋的な宗教観について見直す。

 

それはこの小見出し「宗教体系としての文化」に表されている。

つまり冒頭に書かれているとおり、

全体化する 排他的な言説を、熱狂的、ただしごく選り好みして受容すること、 その言説が示す道を結果までたどるのを拒むことは、宣教、すなわち服従と自己否定に自らを捧げた者たちにとっては、謎めいたもの違いない。さらにこの謎は、われわれ人類学者にも、今なお居心地の悪さを覚えさせるものと私には思われる。(p.24)

つまり、キリスト教の教えがすべての秩序なり体系を一貫して支配するものとしてあるならば、その教えの排他性(他の秩序を寄せ付けないし、他の秩序の一部もありあえない)から判断すると、インディオの気まぐれさは理解しがたいものとなる。そして、個々人が宗教的な様相をもとにして体系的な文化を持つ「信念の体系」にあると考えるような人類学者たちも同様にインディオに対しては理解しがたい。(p.25)

 

しかし、このようなキリスト教をはじめとする排他的で体系的な在り方とは違って、インディオの気まぐれさは、そのような体系的な文化あるいは宗教の対立ではない。

 

これは人類学をふくめて人々が想定するような文化概念を露わにし、批判するような非常にラディカルなことを言っている。端的に言うならば、

われわれの現行の文化の概念は、ギンバイカの像ではなく、大理石のそれが立ち並ぶ人類学的風景を映し出す。…(中略)…しかしながら、おそらく、その基盤(の不在)が他者への関係性であり、自己自身との一致ではない社会にとって、これらのすべての意味をなさない。(pp.29-30)

ギンバイカ(植物・木)の像と大理石の像の例は 冒頭の宣教師の言葉に出てきており、これは本書の重要なモチーフなのであるが、簡単に言えば木を剪定してできた像はすぐに作れるが管理が大変(伸びてくる枝を切り、整え続けなければならない)のに対し、大理石の像は作るのが大変だが、一度作ったら永久に変化しない。

そしてこれを言った宣教師によると、インディオは後者にあたるという。

 

VdCはこの例を再び用いて、人類学者のもつ文化概念においては、人びとには大理石のように強固な文化があり、それは一度変わってしまえは容易には変化しないと考えられていることを露わにする。

しかし、これを見直す必要があるとVdCは唱えているのである。まさしく人類学における文化概念批判を行ったジェイムズ・クリフォードを引用しながら。

 

これはよく考えてみれば当たり前のことである。

つまり、我々は他の「文化」(これは明確にあるのかはわからないが)に接触したならば、それは塗り替えられるようにガラッと変わってしまうというように考えがちである。

マクドナルドがアメリカから入ってくるなどして「アメリカ文化」たるものが「日本文化」たるものを押しのけて日本の人々を支配する、というようなイメージである。

 

しかし、そんな白黒分けられるものではなく、マクドナルドを食べながら日本っぽい(?)音楽を聞くみたいな感じで、「日本文化」が「アメリカ文化」にそっくり塗り替えられたわけではない。

そして、これを考えていくと「文化」の体系、基盤などあるのかという話になってくる。それが本書における「基盤(の不在)」とした「(の不在)」の意味であると考えられる。

 

 

このようにしてVdCはジェイムズ・クリフォードたちによる『文化を書く』の衝撃(=Writing Culture Shock)を真摯に受け止め、人類学の文化概念を乗り越えようとしているのである。