T.インゴルド 『メイキング』第一章「内側から知ること」
ユニークな著作を発表しながら第一線で活躍する人類学者インゴルドの新刊。(原著は2013年)
題名にもある通りこの著作は「つくることMaking」について人類学、考古学、芸術、建築(Anthropology, Archaeology, Art, Architecture)の4つのAを横断しながらラディカルに捉えなおそうとした試み。
第一章「内側から知ること」は全体の導入と本論のための前提の提供。
知ることとは対象として見ること(外側から見る)によってではなく、それとともに自分自身も変化しながら知識を得るということ(内側から見る)であるとインゴルドはいう。
それはグレゴリー・ベイトソンが「二次学習」と呼ぶようなもの。分かりやすく言えば
動くことによって知るのではなく、動くことこそが知ることなのだ。(p.14)
例えば自転車を「知る」ということはどのようなことだろうか。
もちろん自転車や自転車に乗っている人を観察することによって、自転車がどのような構造で動き、どのようにして足と手を動かせばペダルとハンドルはどのようして動くのかということを「知る」ことができるかもしれない。
しかし、それで「知る」ということに関して十分なのだろうか。(実際にそれだけでは自転車には乗れない。)
自ら自転車を漕ぐようになって初めて自転車がどのように動くのかを知るということが出来る。それによって自転車を知ることができる。
このような例はよく身体知の文脈で用いられるが、ここでみられるような「知る」ということは身体に限ることではない。
身体に限らず思考なども身につけることができるからだ。
これをインゴルドは「探求の技術」として呼び実践していく。
探求の技術において、思考は、わたしたちがともに動く物質の流れやその変動に絶えず応答しながら、それらとともに進行するように振るまう。(p.26)
このような方法を人類学者の宮崎宏和は「希望のメゾット」と呼んだが、インゴルドは「応答correspondence」と呼ぶ(p.27)。
詳しくはのちに示すこととするが、ここであえてインゴルドが「応答correspondence」と呼びかえているのは、これまでずっと彼が唱えてきた「線line」の概念を発展させるために適していたからであろう。
この「応答correspondence」は本書での中心的な概念であり、以下の章はそれを人類学、考古学、アート、建築の分野で説明をしながら実践していく。
当事者研究―「つながり」のための言葉を紡ぐ
実は別の本をまとめようと思って調べだしたら本末転倒?でなかなか書けなくなってしまい更新しておりませんでした。
この次の記事はそちらになると思うのでお楽しみに。
すこし箸休めというか、自分では手に取らなかったであろう本を講座の先輩が送ってくれて読んでみたのでちょっと紹介。
二人とも東大を拠点とする研究者で、アスペルガー症候群の診断名をもつ綾屋紗月と脳性まひをもつ熊谷晋一郎の共著。
研究者だから堅苦しい文章かというと決してそういうことはなく、むしろ本書に書いてあることを実践するように自らの感覚とそれの共有の作業を通じて紡がれた言葉によって編まれている。
本書にあるように、ある面で考えてみたらアスペルガーが「つながり」を持てない病で脳性まひは「つながり」すぎてしまう状態といえるかもしれない。
この二つの好対照が組み合わされながら当事者研究という「つながり」のための実践の可能性について説かれた意欲作。
第一章「つながらない身体のさみしさ」では綾屋がアスペルガー症候群の症状を、診断名がついていなかったときから振り返りつつ、自らの言葉で記述していく。
そこでは世界ひいては自分の身体との「つながり」が失われ世界が崩壊していく感覚が図式を用いながら記される。
その言葉は一見特異的だ。少し長いが引用しよう。
ある時は、体のパーツがバラバラに自己主張し、私はほかならぬ「私の身体」と、つながっていない状態になる。意識が半分ぼうっとしていることろへ、肩や腕の皮膚の上をカミソリで剃るような感覚がすうっと走り(これは冷たい風になでられたようで「寒い」と似た感覚である)、腕の肉は厚さ二センチ分くらい削がれてひらひら飛んでいってしまいかねず、両肩は肩甲骨の下の筋肉のところからねじ切れて離れていきそうである。…(pp.40-41)
このような調子である。
私自身はこのような感覚を持ったことがあるような、ないようなという感じだったが、ある人にとってはしっくりとくるかもしれない。
第二章「つながりすぎる身体の苦しみ」では熊谷が脳性まひのリハビリの体験をもとに「つながり」すぎる身体について考えを巡らす。
「つながり」すぎ、言い換えれば密室のような状態をいかにして捉え、それを解きほぐすための方策を見つけるのかということが分析されている。
今まで脳性まひの人たちの世界を想像できたことはなかったのだが、ここの解釈は自分にもしっくりときた。このような状態は脳性まひを持つ人にとっての身体に限らず、「健常者」と呼ばれる人の心の動きや行動にも当てはまる部分が大きいと思う。
特に分かりやすかった図(p.46)を載せる。(手元にスキャナーがないので写真で失礼)
身体の各部分が「つながり」すぎて、一部分が緊張すると他の部分も緊張する。そのため外部に対する反応がうまくいかない。この図と言葉は非常に分かりやすい。
第三章「仲間とのつながりとしがらみ」では綾屋がアスペルガー症候群であるとの診断を受けたあと自分と同じ症状を持つ人びととのつながりを獲得した経験をもとに、このようなカテゴリーに依拠するつながりには限界があることを指摘する。
綾屋はこのようなカテゴリーをもとしたつながりの段階について第一世代、第二世代、第三世代と名付けて分析する。
第一世代は自分がマイノリティであるとは知らず周囲の同化的圧力に押しつぶされそうになっている状態である。
第二世代は自分がマイノリティであることを認識し、おなじような仲間を見つけることで仲間同士で連帯を持つことが出来る状態を指す。これによって安心できる場所を見つけるが、ここには「つながり」をもつからこそのしがらみも発生する。マイノリティがグループとして存続するためには、そのカテゴリーをそのまま受け入れなければならないのである。具体的には自分自身を「アスペルガー」=ex.「コミュニケーション障害」という定式に則る必要があり、その中ではアスペルガーの「本物らしさ」「同質性」が強調されるのである。
このような第二世代の中では、カテゴリーの内部での同化的圧力と外部との分断が起こってしまう。
そこで互いの差異を認めながらも連帯できるようになる状態が必要になる。
それが当事者研究の実践という第三世代である。
第四章「当事者研究の可能性」では綾屋と熊谷が症状について自分の言葉で話した経験から当事者研究に出会い実践するまでが示される。
有名な「べてるの家」に見られるように、自らの状態に関して自らの言葉で表現し、それを同じような仲間たちと共有していくことで、より多くの人びとにとって理解可能なものとしていくことが当事者研究である。
「病気」には他者からの規定である病名と症状が伴うが、当事者にとってそれが自分の状態の表現としてなじむとは限らない。
そこで自分の言葉でそれを紡ぎだし共有し分析することで「内側からわかる」ようなものにしていくのである。
言い換えるならば、大文字の「病気」をいったん隅に置き、小文字の「病気」を作り出していく実践であろう。
ここで文化人類学者の大村敬一の「構成的体制」(「所属するコミュニティの言語、社会制度、信念や価値観」の基本設定)という概念を使っている(p.108)。個人の日常的実践における知覚と運動のループをコミュニティが共有する構成的体制にフィードバックし擦り合わせていくということを繰り返す。それを続ける営みが当事者研究である。
第五章「つながりの作法」ではこのような当事者研究をするにあたっての作法、自らの状態を「研究」するための方法と注意点が示される。
当事者「研究」というからには研究、すなわち一次データの集積とその解釈という二つの点が安定していなければならない。
そのための方法として「ダルク女性ハウス」に見られるような「言いっぱなし聞きっぱなし」の原則、アルコール依存症の自助グループ「Alcholistic Anonymous」の「12の伝統」が参考になる。
第六章「弱さは終わらない」では以上のような当事者研究は固定化されるものではなく、終わらない自分の弱さを語る「場」としての当事者研究の必要性について示される。
以上、大枠だけをまとめたがこれだけでも刺激的で、かつ「地に足の着いた」考え方が実践されているのが理解できるだろう。
個人的には病気を医療側からの一方向的な実在としてのみ捉えるのではなく、患者側からの構成的なものとして捉えるという考え方が面白かった。
しかし、ここで疑問なのはどのようにして最初に「患者」が集まることが出来るのかということである。そこにはやはり大文字の「病気」としての実在が想定されているのではないだろうか。その実在を想定する限り範囲を超えてつながることはできないのではないだろうか。
ところが、本書を見返してみるとアスペルガー症候群と診断されていない自分や脳性まひを持たない自分にとっても「内側からわかる」というようなことが大いに存在することが分かる。
それこそが「同じでもなく違うでもなく」という副題に示されている「つながり」ありかたであるかもしれない。
このようにカテゴリーを超えて「つながり」をもつ当事者研究という方法には大いに可能性を感じた。
亡霊と同一化 アンナ・カヴァン『氷』
たまには、人類学とか関係なく本当にただ雑記をしてみる。
この本は昔、自分の好きなアーティストがツイートしてていつか読みたいなと思っていたのだが、手に入れてからの積読をも経てようやく読み終えた。
内容自体は「氷」が迫ってくる戦争と暴力に満ちた世界で、主人公の男が銀色の髪の少女をひたすら探すというもの。
少女は以前、男と一緒に仲睦まじく暮らしていたことがあったのだが、突然別の男のもとへ行ってしまう。
その後、少女を追いかけて少女にとって絶対的な支配者である「長官」に近づいたり、離れたりを繰り返す。
やっと少女のもとにたどり着いて一緒に逃げようといっても、今度は少女が男を拒絶したり…。
本書の記述も幻影なのか事実なのか分からないような少女の姿があったり…。(あれ、少女死んだ?生きてる?っていうときが2,3回ある)
とにかく少女の存在自体も世界で起こっていることも、何が事実で、何が嘘なのかが本当に分からない。
少女の持つ美しいアルビノの肌と銀色の髪は幻影でもあり「氷」でもあるような気がする。彼女に主体的な実体はない。まるで亡霊。
いや、この退廃してどの人間も信用できない世界なんて全て亡霊なんじゃないか。
そして彼女を長官のもとから救おうとする男にむかって、少女はこんなことをいう。
「あなたたち、手を結んでいるのね」(p.155)
あの冷酷で支配欲の塊のような長官のもとから男は少女を守ろうとしているにもかかわらず、である。
そして、男自身もそれを聞いて、こんなことを考える。
私は否定したが、不思議なことに、少女の言葉にはどこか真実があるように思えた。(p.155)
時は進み、必死の覚悟で少女のもとにたどり着いた男は、少女の怯え切った様子を見てこんなことを再び考える。
二人は結託している。あるいは二人は同一人物なのかもしれない。(p.240)
男は自らと長官との区別が分からなくなる。
亡霊の世界では自らの明確な境界など存在しないのだ。
この、世界が外側と内側からガラガラ音を立てて崩れる様子は読む者を不安にさせる。
最後の数ページでようやく少女は主体性を匂わせ、男に温かさを与えるが、世界はもうすぐ「氷」に覆い尽くされてしまうのだ。
ポストコロニアル論争を詩的にふりかえる 今福龍太『クレオール主義』
ジェイムズ・クリフォードによる『文化を書く(Writing Culture)』をはじめとする、人類学に大きな論争を巻き起こしたポストコロニアル論争。
それまで当たり前とされてきたような国家、人種、民族、言語、文化…といった枠組みが西洋近代、植民地主義の産物であると批判される。
現在の人類学は、この時代を乗り越えたものもあれば、消化不良(あるいは無視?)のままのものもあるように思う。
個人的には、ポストコロニアル論争は人類学をより反省的にし、インフォーマントにもより寄り添った(搾取的ではない)方向へと促し、また新しい可能性を開いてくれたのではないかと考えている。
いずれにしても人類学を学ぶものにとっては無視することはできないだろう。
しかし、一括りにポストコロニアルといってもなかなか全貌はつかみにくいし(そもそも「全貌」などあるのか分からない)、批判の源泉である植民地文学などから入るほど本腰を入れる余裕もない。
そこで、本書は当時の批判を豊富なテキストをその圧倒的な感性とともに読み解き記述しているため、論争をふりかえるには良書といえるかもしれない。
以下、自分の関心に基づきつつまとめていく。
(底本としたのは青土社版(1991)ではなく、ちくま学芸文庫版(2003)で、150頁が新たに付け足された補遺として掲載されているので、その部分も触れられればと思う。)
①地理的な地域という囲いの中に植民地の人びとが押し込められて、ネイティブあるいは土着という概念ができる。―場所論
②それに対して土地に縛られていない者、それよりも優った「西洋人」がどのような視点でネイティブをまなざしたのかを批判する。―プリミティヴィズム論
③もはや設定された枠組み、境界線(文化、人種、言語…)によって事象を捉えることはできない。―越境論、混血論
といった流れか。
どの章も初出は個別に発表された論文なので、明確に分けることはできないし、これらは一つの章の中でも組み合わされて示されているが、自分なりにピックアップし再構成する。
①場所論
パレスチナ生まれの亡命知識人E.サイードは亡命者にとっての故郷に対してこう書く。
あくまで自分自身のネイティブな土地があり、それに対して愛はあるとしたうえで
すべての亡命において真実であるのは、その故郷が、そして故郷への愛じたいが失われてしまったということではなく、故郷の存在とそれに対する愛そのもののなかに、すでに喪失が本来的に埋め込まれてしまっているということなのだ。(本文より孫引きp.14 以下孫引きの場合でも同様にページ数のみを示す)
現代に生きる者にとって場所とは地理的な土地である以上に、それが含む、時の記憶のようなものが貼り付いている。
そしてその場所は、亡命者のような極端な例に限らず、移動して生きる我々にとっては常に葛藤を含む。
私自身の話を少しすると、母が沖縄で里帰り出産をし、幼少期を東京で過ごし、中学生まで名古屋の近くの街で育ち、知り合いのいない名古屋市内の高校へ通い、大学では再び関東へ来ている。
沖縄には親戚も多くおり、小さいころはよく遊びに行き、その空気を知っているが故郷とはいえない。しかし、外国に行くときなどに出生地を記載する欄があり、そこにはOKINAWAと書くしかない。知っているけど知らない、遠い記憶のような「故郷」のように思える。
あるいは誰でも住む場所を変える機会はあるかもしれない。その時の記憶と場所と名前。例えば3年間慣れ親しんだ「名古屋」という文字を見た時の心の動き。
多かれ少なかれ移動をしている私たちはこのような場所に対する葛藤と変容を抱えている。
これらの場所すなわち「現実と表象と権力の多様体」(p.15)を考察するために、次のように考えてみる。
そもそも、「場所」とは人間の文化を当てはめるためにできたものではなかったのだろうか。
「土地」という名で呼ばれる「場所」はたしかにそこにある。 土地は人間によって具体的に経験されるためにわたしたちを待っている。そのことを否定しようというのではない。…(中略)…
だが、「場所」という概念にひとたび地理的な土地としての実体的な根拠を与えるやいなや、わたしたちは奇妙な迷路のなかに迷い込むことになる。認識が、視覚的・平面的な存在論のロジックにつなぎとめられてしまうからだ。「場所」という概念がもともと人間の文化を記述=再提示(リピリゼント)するときのレトリックの一つとして編み出されたという由来を、そうした実体論は宙づりにし、曖昧なものにしてしまうからだ。(pp.15-16)
そしてこのように文化を記述するための思考によって作り出されたのが「土着」(ネイティブ)という概念だった。それは文化の存在を実体的な場所と結びつけている。
このときに注意すべきなのはここでいう「文化」とは狭義での文化である。より一般的な言葉でいうと「この地域に住む未開の部族には今も伝統的で純粋な文化がある」 という時の「文化」である。
「この地域に住む未開の部族には今も伝統的で純粋な文化がある」という言葉にはいくつか問題点がある。
まず、「未開」「今も」という点。つまり時間的な尺度で文化を捉えている点。つまり、「われわれ」は文化を失ってしまったが、「彼ら」は未だ「文化」を持っているという考え方だ。
そして、「この地域」というような表象は、彼らが土地に縛り付けられており、「未開」「野蛮」である卑しい存在であることを示す。
一方で逆に「われわれ」が失ってしまった、(彼らのもつ)文化が「伝統的」で「純粋」であると懐かしむような態度、すなわちレナート・ロサルドのいう「帝国主義的ノスタルジー」がそこにはある。
このようにして、実体的な「地域」が文化を表象=再提示するものとして現れ、土着(ネイティブ)の「文化」は西洋人を魅了していく。
②プリミティヴィズム論
このようして出来上がったネイティブに対して憧れを持つ西洋人は多かった。
本書での例は、1920年代に盛んになるモダニストによるネイティブアメリカンの村への旅。
これにはもちろん当時の人類学者も含まれる。
「金持ちのおてんば娘」ともいえるエルシー・C・パーソンズ(のちにアメリカ人類学会に初の女性会長として就任)はその一例として挙げられる。「純粋文化」への好奇心から、1910年代半ばからプエブロ・インディアンの村に足繁く通い事例を集めた。
人類学においてはルース・ベネディクトが、モダニストたちのような「純粋文化」への感動から、「文化の型」として「土地」と「土地」の差異を「文化」という言葉によって語ろうとする科学的パラダイムへと思考を変えた。(『文化の型』1934)
では、このような「純粋文化」への憧れ=プリミティヴィズムは無くなったかといえば、そんなことはない。
いや、むしろ多くの「地域」が世俗化し自分との「落差」「差異」が発見しづらくなることで、ファンタジーとしての「未開の地」が生みだされる。
例えば、ニューギニアで行われている観光としての「食人族ツアー」。
映像作家デニス・オルークの『カンニバル・ツアーズ』(1987)はこの行動を皮肉な視点で描き出しているように、観光客は「食人」という「プリミティブ」なものへの好奇心にそそられながら、顔面を白く塗りたくり、「原始ごっこ」に興じる。
ここでは、もはや実体的な「場所」はもはやなく「無時間」で「無形態」のネヴァーランドとなる。(p.94)
③越境論、混血論
今まで①場所論②プリミティヴィズムについて考えてきたが、ここでみられるように場所についての政治性というものは他の国家や人種、民族、言語についても同じように言える。
ここでは越境、混血性(これはどちらも自明とされるボーダーを攪乱する)について考えている。
移民のような人びとについて語るとき、多くはどのように考えるか。
社会にとって移民はもはや「文化を持たない」人びとであり、マジョリティの文化への順応が想定されている。
社会科学における異文化受容や同化の議論も同じだ。
複数の文化の接触は必ずその帰結としてマイナーな文化の支配的文化への 融合と同化のプロセスを多かれ少なかれ経過することになる。一つのまとまりを持ち、一貫性をそなえていると見なされるドミナントな文化の画す「境界」の外側から、別の文化の侵入がなされたとき、そのボーダー・ゾーンに起こる葛藤や紛争は、最終的に「受容」と「同化」という動きによって解決の方向にむかう、とそこでは想定されたのである。(p.105)
このような考え方の前提には、文化が明確な境界を持つという概念があった。
つまり、明確な境界があると考えることで対立が起きると考えるようになる。
しかし、メキシコの貧しい詩人が国境を跨いで手に入れたアメリカ製のペンとともに詩を書くことに見られるように、すでに私たちの中には異質なものが入り込んでいる。つまり、明確な境界はもはやないのである。
「われわれ」も「彼ら」も、ともにかつて考えられたような独立したホモジニアスな性格を持った主体として見なすことは、もうできない。「われわれ」のなかにはすでにいつのまにか「彼ら」が住み始め、はじめてわれわれと出会ったかに見えた「彼ら」の内部にも、すでに「われわれ」は棲息していた。このことに盲目を装いたい首都的な、ドミナントな、支配的な科学や権力だけが、いまだに文化のボーダー・ゾーンに生起する動きを抑圧しようとしているにすぎない。(p.106)
(モノや人の移動とともに明確な境界が無くなったと考えるべきではない。確かに移動の活発化でよりそれは加速しているようにも思えるが、モノや人の移動というのは以前からあり、文化概念の設定のほうが無理に区画した。もちろん、移動の活発化と共に文化概念の限界が露呈したというのは間違いではないだろう。)
このようにして、境界を超えるもの=越境とそれにまつわる混血性・ヘテロジアルな様子が見られたであろう。
おなじようなことは言語についても考えられる。そして、ここからクレオール主義へと導かれる。
④クレオール論
言語学の領域で「ピジン・クレオール諸語」と呼ばれる一連の言語がある。
これは、大きくピジン語とクレオール語に分けられるが、どちらも元々の言語を話していた地域の人びとが別の言語を使うことで、その言語の用法が変化したものである。
例えば黒人の「ブロークン・イングリッシュ」などである。
わたしたちの多くは今でもこれらをより「高次の」「正統的な」言語の間違った使用法であるとみなす傾向がある。
しかし、これらは現在言語学でも「新しい言語生産行為」として見なされる。(p.210)
では、これらについて少し詳しく見てみる。
ピジン語とは
共有する言語を持たない複数の集団が交易等の目的で継続的に接触を繰り返す際に、相互のコミュニケーションの必要性からあみ出される一種の簡略化された言語のこと (p.211)
をふつう指す。
例えば「ブロークン・イングリッシュ」は、「黒人」が「白人」の使う英語を話さざるをえず集団の中で生み出された言葉である。例えばtwo knives -> two knifeなどの簡略化がみられる。
そして、ピジン語がネイティブスピーカーを獲得した時にクレオール語は発生すると思われる。(p.216)
語彙の少ないピジン語をネイティブとして日常生活のあらゆる部分で使っていくにつれて語彙と表現力を獲得する。これがクレオール化である。
このクレオール語はもはや「間違った用法」ではなく一つの言語として捉えることができる。
特定の言語の領域を攪乱するようなクレオール語。
この混血性と創造性を援用しながら現象を捉えようとする。それがクレオール主義である。
(そもそもクレオール自体はもとは新大陸生まれの白人を示していたという話は割愛する。)
言語的概念としての〈クレオール〉、そして流動的なアイデンティティ意識にかかわる文化概念としての〈クレオール〉の問題を見てきたいま、まさに焦点となるのが「思想の構え」としての〈クレオール〉についてである。従来の「民族的・言語的・文化的アイデンティティ」という固定化された帰属の領域から脱したところでつねに〈クレオール〉という現象が生成することの確認は、必然的にわたしたちをノン・エッセンシャリズム的認識の彼方に広がる、力強い思想実践としての〈クレオール主義〉の地平に導いていくからだ。(p.228)
補遺
ここで、クレオール主義のだいたいの本論は終わっているのだが、ちくま学芸文庫版の際に追加された話をすこし。
本論の初出は1990年であったが、文庫化されたのは2003年で約十年のあいだがある。
補遺の5つの章はいわば今福のクレオール主義のその後であるといえる。
全体的には、クレオール主義のもつノンエッセンシャルな立場をとりながらも、再び分断へと戻ろうとする世界について考察しているように見られる。
ディアスポラ概念とナショナリズム、コスモポリタリズムに関する考察がその代表といえるかもしれない。
あと町工場にあつまるガラスの流体性、ガラスであるというだけで各地から集められたガラスの性質を横目にみながら人間の移動について考える「水でできたガラス」という文章は面白かった。
ということで以上でまとめは終わり。
全体の流れだけではなく、本書に含まれた文芸批評やフェミニズムなども含めて読むと、何となくポストコロニアル論争の様相が分かったような気がする。
読み物としても面白いので、人類学を学ぶ人は一度読んでみることをおすすめしたい。
(ちなみに今年2017年に水声社からさらに2つの補遺が加えられて出版された。ちくま学芸文庫の装丁もよいが、水声社の装丁は桁違いにかっこいいのでおすすめ。)
「徘徊」を真剣にとらえ、ともに飛び立つ 坂口恭平『徘徊タクシー』
認知症の人が町をさまようとされる徘徊。
家族やケアワーカーなど周囲の人びとにとっては「訳が分からず」「困った」ものかもしれない。
認知症というだけに「認知」に問題があり、脳の働きの「低下」がそれを生み出すと考える人は多いだろう。
しかし、どうだろうか。
彼/女らは本当に「間違った」「訳の分からない」ことをしているのだろうか。
坂口恭平は一度立ち止まって考える。このように早まった考え方をしていいのだろうか、と。
彼/女らは自身なりに何かを求めて徘徊をしているのではないだろうか。そのとき、彼/女の世界は「普通」の世界と同等に考えることもできるのではないだろうか。
ボロのフォルクスワーゲンに曾祖母を後ろに乗せて、一度、彼女の行きたい場所へ行ってみた。そこには別の「山口」があった。
これは間違った「山口」なのではなく、別の「山口」なのではないだろうか。このようにして考えることによって私たちは縛られることなく世界をもっと広げることができるのではないか。
鷲田清一の『じぶん・この不思議な存在』では現象学的な視点から確か以下のようなことが書いてあった。
子どもが一人、部屋で自らの世界を描く。自らが船乗りや宇宙飛行士、そして「普通」の子どもの世界だ。
このように子どもは沢山の世界を持っているが、親に声をかけられたときにただの「普通」の子どもになってしまう。
このようにして沢山の世界があるのにも関わらず、私たちは世界を狭めているのではないか。
同じようにして、認知症の人びとにも別の世界があると考えてみる。
そして、「徘徊タクシー」としてその世界へともに飛び立つ。
そしたら新しい世界が待っているかもしれない。
しかし、どのようにしてこのような世界を、子どもや認知症の人びと=発達段階の「低い」とされる人びとの世界だけにとどめなくて、真剣に受け止めることができるのか。
ここは課題である。
ひょっとしたら、近年の人類学理論の近代的な単一自然vs多文化を超えるものとして捉えることもできるかもしれない。
これは優れた研究を待ちたい。
生命は続く。 Life goes on. 映画「21g」
BABELに感銘を受けたのでアレハンドロ・ゴンザレス・イニャリトゥ監督の別の作品「21g」を観た。
赤の他人同士が運命によってつながっていく様子が描かれる点は同じだが、今回のテーマは「生命は続く(Life goes on.)」というところか。
これもまた人間の悲しき性だろう。
心臓に持病を持つ男は交通事故によって脳死になったドナーから心臓移植を受けて助かり、その心臓のルーツを探していくうちにある事故を知る。
刑務所を出たり入ったりを繰り返していた男が、幸福な家庭の夫と女の子2人を車でひき逃げし証拠不十分のまま出所したという事件だ。
残された妻はなぜ自分だけが生き残ったのかと自暴自棄になる。
しかし、元悪ガキも刑務所から足を洗い、神への厚い信仰を支えにささやかな暮らしをしており、事故は彼の生活も壊してしまったのだ。
この三人―心臓を患う男、事故で残された妻、元悪ガキ―が重なりながら物語が展開していく。
よく人は、生命が続くことが希望だという。
自分の生命を維持すること。あるいは自分の子孫を持つこと。
これが人間ひいては生命体の義務であり、希望であると。
しかし、僕は昔から、それが何だか恐ろしかった。
何がそんなに恐ろしいのかはよく分からなかった。
高校生のとき、科学系の教育番組を見ていてその理由が何となくわかった。
ジャガイモに寄生する虫は卵を自らの体に宿し、自らは卵の鞘となって死に固まるのである。そして時期が来ると子どもは親=鞘を突き破って外に出る。これがこの虫では無限に繰り返されてきたし、絶滅しない限りこれからも無限に続いていく…。
これを番組では生命の維持というようにして当たり前のように希望として描いていた。
あるいは、いつか教科書で読んだカゲロウの話。(調べたら吉野弘という人のI was bornという詩だった)
カゲロウの口は退化しており、物を食べることはできない。
胃を開けても空気しか入っていない。しかし、卵だけはぎっしり詰まっているのだ。
こんな個体は生まれると光に向かって飛び、生殖し、死ぬ。
これが無限に繰り返される。
上の2つの話を知って僕は何だか悲しかった。というより怖かった。
生命が続くことは何も希望ではない。
ただただ生命が続いて(しまって)いる。それだけだ。
これならばいっそ絶滅させて生命の連鎖を断ち切ってしまったらどうか。
生命の存続について、こんな風に思ったのである。
そして、この映画も同じだ。
脳死した身体から取り出された心臓は別の個体に入ることで生き続ける。
死にそうな体も、新しい心臓を取り込むことで生きられる。
最愛の家族を失っても自分だけ生き残る。
罪の意識に首を吊って死のうと思っても結んでいたパイプが外れ生きながらえる。
関係が破綻し別れた恋人の体には新しい生命が生まれている。
生命は続く。Life goes on.
この悲しき生命の性はどこへ向かうのか。
そして、あるとき、人間の個体が死ぬとき、誰もが失う21gという重さは何の意味があるのか。
ダナ・ハラウェイ「サイボーグ宣言:二〇世紀後半の科学、技術、社会主義フェミニズム」
西欧主義的な二分法、全体性(ホーリズム)を攪乱する存在としてのサイボーグ。
その存在は情報工学が支配する社会において、これまで想定されていたいくつもの境界が崩壊したことによって現れてきた。―
ハラウェイの言葉遣いは難解で、読み始めは分からなかった。
しかし、皮肉と小気味良い比喩に乗っかり、そのリズムに合わせながら、ハラウェイの言いたいことを透かして考えてみると、その丁寧な構造と論理性が見えてくる。
副題に見られるように、本論文では現代社会における科学、技術について考察しながら、あくまでフェミニズムに主眼を置いているのだと頭に入れておいたほうが読みやすい。
以下のページにある新装版記念の読書会にも参加させていただいたので、その内容も時々紹介する。このページには良質な資料の数々が掲載されているので、合わせてご覧いただけたらと思う。
republicofletters.hatenadiary.jp
ここでは自分の中での整理も兼ねて、なるべく平易な言葉で書く。
自主勉強会のレジュメの改変を基に作っている。(見出しは論文に準ずる)
集積回路の女性は共通言語というアイロニックな夢を見るか
ここは本論文の導入。
ハラウェイはこれからフェミニズム、社会主義、唯物論への「冒涜」を行うとする。
(※冒涜は崇高な対象を貶める。しかし、同一化してしまうことよりも誠実である。つまり、それまでのフェミニズム、社会主義、唯物論にそのまま乗っかるのではなく、それを批判し、攪乱するという作業を示していると考えられる。)
ここで用いるのが、サイボーグのイメージ。
「サイボーグ―サイバネティックな有機体―とは、機械と生体の複合体であり、社会のリアリティと同時にフィクションを生き抜く生き物である。」(p.287)
※サイボーグというと、機械と人間の融合した最強な生命体のようなイメージが流布しているが、そうではない。機械、人間、動物、物質…が結びついて、どこまでが主体でどこまでが客体であるかも分からないような状態。
原書の表紙の絵がわかりやすいのではと訳者の高橋氏も言っていた。
この絵で見られるように、サイボーグは人間にも見えるが胸には集積回路が、頭には動物が接合されていて、どこまでが本体・中心または部分かすら分からないものと想像するといい。
では、なぜサイボーグのイメージが必要なのか?
当時(現在でも)のフェミニズムにおけるジェンダー論をはじめとした様々な議論は西欧的な一体性の思考(ホーリズム)によって成り立っており、それでは限界があるとハラウェイは考える。
ヒラリー・クラインが分析したところによると、マルクス主義、精神分析、労働の諸概念、個、ジェンダー形成の諸概念は起源の一体性というプロットに依拠している。(p.290)
全てが、ある「こと」から生み出されたと考えるような思考が西欧を占めている。
例えば、マルクス主義では経済・物質性が、精神分析では抑圧された性が、ジェンダー論では社会的な性の決定によって現在の状況の全てを考える。
しかし、サイボーグはこのような起源の一元性を無視する。
サイボーグは一つのパラダイム的なものではなく、部分的なものである。
「サイボーグは、断固として、部分性、アイロニー、緊密さ、邪悪さに関与する。サイボーグは抵抗的で、ユートピア指向で、無垢さなどまったく持ちあわせていない。」(p.290)
一方が他方を搾取、組み込みをするのではない。何かを敵として名指して倒すことはしない。
では、このようなサイボーグが住む世界はどのようにできたのか?
サイボーグのための分析の前提
ポリティクス‐フィクション(ポリティクス‐サイエンス)の分析のために必要な前提は3つの境界の崩壊によって起こったとハラウェイは考える。
- 人間と動物の境界の崩壊
人間は動物=自然とは唯一異なる存在であると考える西欧的な思考がある。これは主に創造説に由来すると考えられる。
この支配的な思考は生物学と進化論によって覆された。
※批判への対処:生物学決定論は人間が動物であることの意味を科学文化において論じる際にとりうる一つの立場に過ぎない - 動物-人間(生体)と機械との間の境界の崩壊
生体である動物や人間と機械との間には主体/客体、能動/受動、書くこと/書かれること、の区別があったが、それはもはや言えない。
「我々の機械は不穏なほどに元気がよいし、その一方で我々自身はといえば、驚くほど活気がない。」(p.292)
※批判への対処:技術決定論も活動をコードされたテキストとして考える一つのイデオロギー空間にすぎない。 - (2.の部分集合だが)物理的なものと物理的ならざるものとの境界の崩壊
今の社会ではどこに機械・物理学が物質的・政治的に存在しているか不明瞭である。物理的なものはどこに存在し、我々を支配しているのか分からない。
=ポリティクスとしてのサイエンス(フーコーの権力・知の政治をより拡張)
以上のような3つの境界の崩壊にもかかわらず、アメリカの社会主義者やフェミニストの大半が一層深い二元論を想定している(p.295)精神/身体、動物/機械、理想主義/唯物主義…
しかし、このような考え方では現実を捉え、変革するためには不十分ではないか。
多くの人はテクノロジーが支配するような世界に対して反対する。しかし、そのようなテクノロジーとともにある世界の在り方も、見方を変えれば、現実は変わりうる。
見る角度をわずかに歪めてずらすことで、意味や、さらにはもっと別の形態の権力や快楽を、もっとよい形で問題にしていけるかもしれない可能性がある。(p.296)
そこで、現実をサイボーグの視点で見てみる。
単一の視点から生みだされた幻影は、複眼視の場合や多頭のモンスターの見た世界には遠く及ばない。(p.296)
このようにして、現実に住む我々はサイボーグになるのである。
断片化するアイデンティティ
ここでは、フェミニズムがアイデンティティを基盤としてつながりを持つことができなくなった現在を記述する。そして、アイデンティティidentityではなく、アフィニティaffinityによってつながりを持つことを提唱する。
今日、ある者にとってのフェミニズムに対して、単一の形容詞をもって名称を付与することは困難となっているし、状況にかかわりなく、フェミニズムという名詞にこだわりつづけることさえすでに難しい。(p.297)
リベラル・フェミニズム、マルクス主義・フェミニズム、ラディカル・フェミニズム、エコロジカル・フェミニズム、アナーキスト・フェミニズム…
「女性(female)」であることに、女性womenを自然に結束させるべき何ものかがあるわけではない(p.297)
そもそも「女性」というカテゴリー自体を批判しているフェミニズムもあるのだし、このカテゴリーが初めから想定しているような女性female「である」状態が存在するわけではない。
フェミニズムという時に誰が「我々」に入るのかという難問。
では、 「である」という状態がない場合、どのようにつながればよいのか?
そこでハラウェイはアイデンティティidentityではなくアフィニティaffinity(親密性や類似点からのつながり)を根拠としてつながりをもつことを唱える。(p.298)
「である」というアイデンティティではなく、そのように置かれた状況などの類似性からのつながりを考える。
シェラ・サンドゥーヴァルの「抵抗意識」モデルを参照しよう。
ここでは、どのように本質的に「有色の女性」というわけではなく、何らかのカテゴリーから排除された(白人、黒人、女性(白人)、…これらには実質的に「有色の女性」は入っていない)というネガティブなアイデンティティという政治的近親感による抵抗意識が考えられた。
このようなフェミニズムは一体性を突き崩す。それは家父長制、植民地主義などの使い古されたものばかりでなく、時には自らの足元を掬うように有機的、あるいは自然な立場を求める際の要求の根拠も、すべて掘り崩される。
「家父長制が悪いのだ」「それは植民地主義だ」というような一体性をもった批判対象は無くなり、「女性であること」すらも武器として用いることはできない。
しかし、これは新たな結合の可能性をもたらす。(括弧付きの)「有色の女性」には、移民の子どもも入るかもしれないし、貧困層の人も入るかもしれない。
ここで少しそれまでのフェミニズムの整理。
これまでのフェミニズムの経緯、前提 マルクス主義フェミニズム、ラディカル・フェミニズムは、それまでの女性の意識を自然なもののとみなすと同時に変容させてきたが、それではどうしてもつながることができない人が出てきてしまう。
①マルクス主義/社会主義フェミニズム:女性による再生産を「労働」として考えることによって女性を選択可能なものとして一体性を主張(出産も労働であり、私たちも働いているのだ、ということによって女性の権利・正当性を主張)
②ラディカル・フェミニズム:
「自己の労働ではなく、他人の欲望が「女性」の起源であるとされ、かくしてマキノンは、「女性」の経験であるとみなされうるような存在を強要する意識(中略)をめぐる理論を発展させることになった。」(p.305)
そもそも、女性という存在があるのではなく、他人の欲望の対象となることによって構築されたものが女性であるという考え方。
①②もともに西欧的な書き方=全体性のようにして書いているため、部分的なものとして受け入れることはできなかった。*1
全てを含みこむ(包摂する)ようにして自らの支配形態を拡張してきた。
そのため、他のアクター(例えば人種)を含みこむ余地がなかった。
カテゴリーとしての女性や、社会グループとしての女性が、一体化された存在として、あるいは全体かが可能なあるまとまりとして構成されていることを明らかにすると主張するような理論には、人種(やその他こもごも)が入り込めるような構造的余地などなかったといえる。(pp.307-308)
ここでハラウェイは、我々(フェミニスト)は失敗だったという。
しかし、これについて「自覚したうえで、あえて茫漠たる差異に踏みこみ、部分的かつ真の関係を築くという混乱を極める作業に没頭する。」(p.309)
全体性を想定するような概念ではなく、サイボーグのように様々なもの・概念を取り込み、部分的につながることができるような概念を提唱する。
ここで重要なのは差異を知るということ。
一つの全体的な論理ではなく、様々な差異を見つけて、その差異によってつながることができるようなサイボーグを目指す。
支配の情報工学
ここでは、従来の思考を攪乱するような、社会と科学、テクノロジーとの緊密な結びつきによる社会関係の配置替えについて考える。
旧来の階層的支配から、支配の情報工学=新しいネットワークとハラウェイが呼ぶものへの変容。
科学やテクノロジーを含みこむことによって「女性」を取り巻く状況は大きく変化した。
もはや何ものも「自然である」ということはできない。では、どのようにつながればいいのか。
ここにおいては媒介変数の頻度として定式化される=翻訳されることによって協同が生まれる。これがサイボーグの記号論。
つまり、何がどういう点でどうなのか?というときのどういう点というところに注目する。
それ自体が何かの起きることに対して重要であるわけではなく、何かのコード(媒介変数)が起きることのいくつかを整列させるのに重要である。そして、それによってそれぞれの要素は代替可能になる。
例えば、サイバネティクスにみられるように、ある目的(制御、通信、情報処理)を満たすために生物も機械も神経も同等に部品のように構築すること。 (ここは逆巻氏の解説を参考)
ここには部品の区別は必要なく、ただ機能主義的に配置される。仮に、ある部分の機械が使えなくなかったら人間の神経を投入するように。
これのように、コミュニケーション・テクノロジーやバイオテクノロジーのようなツールは新たな社会関係を具体的にもたらし、また、強制する。
「さらにまた、コミュニケーション科学と現代生物学も、共通の動向―世界を暗号化の問題へと翻訳するという、あたかも共通言語を探るような動向―によって構成されている。」(p.315)
コミュニケーション科学は情報の定量化、操作可能性、翻訳可能性を増幅する。
現代生物学も、バイオテクノロジーに見られるように、生体が知の対象としてではなく、生体部品(バイオ・コンポネント)=情報処理装置として存在するようになった。
つまり、 コミュニケーション、テクノロジー、生物学においても機械、生体…の機能主義的な利用が行われ、従来の区別が攪乱されている。
「マイクロエレクトロニクスは、労働からロボット工学やワープロ作業、性から遺伝工学や生殖技術、精神からAI(人工知能)や意思決定過程への翻訳を媒介する。」(p.317)
そこでは、「機械と生体の差異は完全にぼやけているし、心とからだと道具が緊密きわまりない関係をとり結んでいる。」(p.317)
「家庭」の外の「ホームワーク経済」
ここでは、シリコンバレーで働くようになった女性たちから社会関係の再編成を考える。彼女らがやっていることがどのように新しくて、どのように古いのか?どこに今までとの違いがあるのか?それによってどのような変化があるのか?
女性の仕事とされてきたことは、技術の進展に伴って再編成される。
女性が外に働きに出ること、そこで家政婦ではなく、最新技術を扱う。ここには「ホームワーク経済」の再編成がある。
「新技術の社会関係に必然的に伴う今一つの側面は、労働力として科学やテクノロジーに携わる多くの人々にとって、期待、文化、労働、生殖/再生産が再編されることである。」(p.324)
では、この中で、我々はどのようにして対処していくことができるか?
集積回路の女性
ここでは高度産業社会での女性が置かれてきた見取り図を参考にサイボーグを考える機会を捉える。
ハラウェイはイデオロギーよりもネットワークのイメージを用いる。ここには「誰から誰」というような直接的な関係性だけではなく、モノや機械、生体を含めさまざまなものが組み込まれているからだ。
そして
「こうした権力や社会生活の網の目を読み取る術を修得しえた暁には、我々も、これまでとはちがった結合や新たな連帯の仕方を身につけることができるかもしれない。」(p.326)
※ただし、このネットワークには女性の「位置」が存在するのではなく、差異と矛盾という女性のサイボーグとしてのアイデンティティに不可欠な幾何学的性質が存在するだけ。
一体性をもった確固たる位置があるのではなく、分散した状況のなかに「女性」はいる。
「ひょっとすると、動物と機械と融合する過程を介して、我々は、いかにして人間(マン)たらざりうるか、―いかにして、西欧的のロゴスが具体化された存在としての人間(マン)ではなくかたちで存在しうるか、―について学ぶことができるかもしれない」(p.331)
サイボーグ―政治的アイデンティティという神話
最後に、サイボーグを露わにするような物語りについて。
境界をめぐる神話物語り。例えば、文学、映画「ブレードランナー」
書くこと、物語ることにはサイボーグ的な政治性がある。
書くことは、まさしくサイボーグの技術であり、二〇世紀後半のエッチングされた表面である。サイボーグのポリティクスは、ことばを求める戦いであり、完璧なコミュニケーションに対する闘いである。(p.337)
最後に改めてサイボーグの概念を用いることの有用性について。
サイボーグの想像力は、本論で枢要の二つの議論を表現するうえで役に立つ。
- 「普遍的で全体化作用を持つような理論を生成することは大きなまちがいと言わざるをえず、そうした理論は、リアリティの大半を、常に―そして現時点ではまず確実に―とり逃してしまうことになる。」(p.347)
- 科学やテクノロジーの社会関係に対して責任を持つことは、反科学の形而上学―技術を悪魔的存在として扱うこと―をやめることを意味し、したがって、日常で遭遇するさまざまは境界を構築しなおすという作業を大切にし、そうした作業を、他者との部分的な関係性を保ちつつ、しかも我々を構成する各種の部分(パーツ)のすべてとコミュニケーションをとりながら行ってゆくことを意味する。
このようにまとめたうえで、ハラウェイはこのマニフェストを「私はサイボーグとなりたい」と締めくくる。
感想
特に個人的に興味深かった点
①機械と生体の区別の崩壊について。
どこまでが機械でどこまでが生体なのかと考えだすと、分からなくなってくるという状況はハラウェイが論文を書いた1991年よりはるかに進んでいると思う。
しかし、(これは勝手な推測だが)このような状況の黎明期だからこそこのような内容が書けたのかもしれない。1990年代生まれの私としては、確かに言われてみればそうだと思うが、機械が押し寄せてくるような「気持ち悪さ」は当時のほうがあったと思う。
この「気持ち悪い」状況に鈍感になっている私たちに改めて教えてくれた。これはフーコー権力論以来の衝撃。
では、このような状況の中でどのように社会を捉え、変革の可能性を考えていくのかはオープンエンドで、読んだ人が実践すべきだろう。
②アフィニティaffinityというつながりについて。
実は、ハラウェイに興味を持ったのはストラザーンの『部分的つながり』によく引用されていたからである。
「部分的つながりpartial connection」という概念はかなりハラウェイから影響を受けている。ストラザーンのほうがサイボーグの個体っぽさをより排除したという感じだろうか。もう一度PCを読むと分かるかも。
③「翻訳」について。
ハラウェイはそこまで「翻訳」の概念について言及していないが、テクノロジーが組み込まれたネットワークのイメージにおいて、何がどのような点でどうであるのかということを考えると分かりやすいのかも。サイバネティクスはざっと調べたところ好例。
ところで、ラトゥールがANTにおいてアクター同士の権力関係への考慮がされていないのに対して、ハラウェイはそこを考慮しているという意見が先述の読書会で出たが、ハラウェイのネットワーク論的なものはどこかにまとめられているのだろうか。こっちも勉強したい。
それでは。お疲れ様でした。
*1:当初、①②が問題である理由について私は「他者を包摂できないこと」と書いていたが、読者からのご指摘により「差異を生みだせないこと」が問題であると解釈することが妥当であると判断したため変更した。