Anthropology and feeling’s diary

人類学に関する本、日常で思ったことなど。

住むことは生きること。貪欲たれ。 坂口恭平『TOKYO0円ハウス0円生活』

 

TOKYO 0円ハウス 0円生活 (河出文庫)

TOKYO 0円ハウス 0円生活 (河出文庫)

 

 建築畑出身の著者が東京・隅田川沿いのブルーシートハウスの「鈴木さん」の家に入り浸り(れっきとしたフィールドワーク!)ながら独自の視点でその生活を書き綴ったもの。

 

川沿いや橋の下、公園の端に立ててあるブルーシートハウスは普段目にすることも多い。しかし、無意識に見ないようにしていたり、ちらっと見たとしても中の様子など分からない。

しかし、この中には人が生きるという世界が詰まっている。

そしてこの「建築」自体も生きることそのものである。

それは外枠ばかりの建物に住んでいる者たちが忘れていることである。

「自分が快適に生きる。」この目的のために家はあるはずなのに、どうして家に閉じ込められるようにして不快な思いをしなければならないのか?

しかも、快適さを追求しようとするほどに莫大な金額がかかり、他の人間が作った大したことないものを手に入れる。

一方、「鈴木さん」の家は総工費0円。そして維持費も0円。東京の天然物たる「ゴミ」(しかしほとんどは十分に使えるものばかり)を材料に、自分の生活に合うように自分で工夫して作り、改良し続ける。

こんな究極であり、かつ当たり前であるはずの住まいが東京にあるとは誰が思っただろうか?

そう、「鈴木さん」が隣人に教えるようにして書かれた本書を手に、君もこの暮らしを手に入れることができるのだ。温かみのありながらも端正な図説も載っている。

だから、これは「危険な書」である。

 

住むことは生きること。貪欲たれ。

 

坂口恭平さんは進化し続けているが、「建築」という眼を通して見られた本書は源泉なのかもしれない。

他の本も読む。

 

TOKYO 0円ハウス 0円生活 (河出文庫)

TOKYO 0円ハウス 0円生活 (河出文庫)

 

 

 

独立国家のつくりかた (講談社現代新書)

独立国家のつくりかた (講談社現代新書)

 

 

 

現実脱出論 (講談社現代新書)

現実脱出論 (講談社現代新書)

 

 

どのように他者に共感できるのか? 映画「トトとふたりの姉」

www.totosisters.com


映画『トトとふたりの姉』劇場予告編

 

先日、「トトとふたりの姉」という映画を観てきた。この映画を通してどのように他者に共感できるのかについて考えてみたい。

あらすじ

ルーマニアの貧しいロマ(ジプシー)・コミュニティの中で、トトと2人の姉は3人で暮らしていた。というのも、母親はドラックの売人をしていて刑務所で服役しており、父親は顔すら知らないからだ。おじが時々、食事を持ってきてくれるが同時にドラッグ仲間を連れてきて溜まり場になってしまう。

3人は喧嘩をしながらも一緒に暮らし、何度も生活を立て直そうと掃除をしてもすぐにドラッグ常習者の溜まり場に後戻りし、一番上の姉であるアナもドラッグに手を染めることになる。

そんなある日の早朝、警察の強制立ち入りが行われアナを含んで部屋にいた人は逮捕される。トトと2番目の姉であるアンドレアは周囲の人の勧めもあり、孤児院に入って自分の暮らしをやり直そうとする。

トトは児童クラブのダンススクールを励みに取り組み、アンドレアは監督からカメラを渡されて独白をしながら気持ちの整理をしていく。

アナも出所後、二人に合流して孤児院で生活しようと試みるが、ドラッグの生活に戻ってしまう。母親は7年の刑期を終えて家に戻るが、トトとアンドレアは母親と暮らす気はもうなかった…。

 

他者化と共感 ―このような映画を見る意味とは?

映像の中では、極度の貧困や使い回された注射器で首の血管にドラッグを注射する様子が映し出されるなど、ルーマニアにこんな現実があるのには驚きだった。(日本にもこのような場所はあるかもしれないが)

しかし、このような中でもトトとアンドレアは懸命に生きている。「生きることは戦いよ」と児童クラブの先生が言ったように。

 

全く行ったことも見たこともないような離れた地に、自分とは全く違うような生活をしているトトたちにどのように共感できるのだろうか。

この映画を「可愛そうな異国の少年の話」として考えてしまっていては「ルーマニアは酷い。でも、この少年は無邪気ながらに頑張っている。」というように見てしまう。

しかし、それではダメだ。そのような他者化は「ルーマニアのあの地域に生まれなかった自分は恵まれている」という風にもなりかねない。自分に差し迫った形での共感はここにはない。

では、どうするのか?

ある部分(置かれた状況)では自分とトトが同じであると構造的に考えることであろう。これは結構難しい。特に、社会的な背景などの説明がない映像作品ならば。

しかし、逆に映像作品による別の共感の仕方もある。

それは、映像として映し出すことによって、その映りこんだ何気ない部分に圧倒的な存在を感じ、自分も同じ人間なのだというような共感をすることがある。

これは以前書いたロラン・バルトの写真論とも共通すると思う。*1

その部分が(私にとっては)トトの下向きの眉毛であったり、アンドレアの肌の質感であったりする。

このような方法の共感の在り方もある。そこに映像としての意味があるのかもしれない。だからドキュメンタリーは映画館で見るといいと思った。

 

観た皆さんはどうでしたか?どこから共感しましたか?

 

 

世界の断片 ―空手家の写真集 岸政彦『断片的なものの社会学』

 

断片的なものの社会学

断片的なものの社会学

 

 

世界は断片だ。

しかし、こういうと「日常の些細なことにこそ目を向けろ」というようなよくあることのように聞こえるかもしれない。

いや、違う。

世界は断片的であって、ただそれだけ。本当に、ただそれだけ。

 

わたしたちはどうしても全てのものが、一貫した体系のようなものに収束していくような仕方で世界を認識する。

特に社会学や人類学などの「学問」をやっている人はこのような思考の仕方をする癖がある。もちろんそれは社会について形のあるものとして論文や何かに書かなければいけないからでもある。

しかし、その時に取りこぼすような様々なものを「社会になかったもの」にしてしまっているのではないか。

だから、ある意味この本は「社会学」ではないし、逆に社会学でもある。

体系的な形をとっていないけれども、社会について目を向けているからである。

 

小説や音楽や映画など、これについて示唆することはあるけれど、このような社会学の名を冠した形で表されたものを私は知らない。

だからこのような「まとまった」形のものと出会えてよかった。

いや、「まとまって」いてはダメなのか。この本も一つの断片として世界に存在しているのかもしれない。

 

この本を読んでいて思い出した子供のころの断片を一つ。

 

父はあまり本を読まない人であるため、昔住んでいたアパートには父の本らしきものはほとんどなかったように思う。

ただ、一冊だけ父のものらしいのがあったのを覚えている。

それは、緑色のチラシを自作のブックカバーにして、その上にタイトルが油性マーカーで几帳面に書かれた、ある空手家の写真集であった。

角が折れた牛を縄で制しながらカメラに向かって顔を向ける髪の薄くなった空手家を、怖いとも格好いいとも思わず何度も見た。少しだけ牛がかわいそうだった。

知っている人は知っているだろう。アニメ化もされた大山倍達である。

大山倍達外伝―「証言」で綴るゴッドハンド70余年の軌跡

父は以前に空手をやっていたことは自慢していたが、詳しい話は聞いていなかった。

幼い日の僕は父が空手をやりながらこの人に憧れている姿を想像しながらこの本を読んでいた。

それから時間が経ち、そんなことも忘れていたが、この間沢木耕太郎の『深夜特急』を読んでいたら、著者がスペインかどこかで空手少年たちと会い、牛を倒す空手家について知っているかと聞かれた話が載っていて、急に思い出してスマホで調べた。

そして何となく、流行りモノが好きな父は一時期の流行りでこの本を買っただけかもしれないかもしれないなと思った。そして一時期は憧れながらも飽きて子供の手の届くところに放置していたのかもしれない。

しかし、父はこの空手家が日本領時代の韓国出身であるという複雑な経歴を知っていたのであろうか。

 

断片的なものの社会学

断片的なものの社会学

 

 

 

記憶の在り処 「Eternal Sunshine」

この前、ある人のツイートで映画「Eternal Sunshine」についてのコメントをしていたので早速借りてきて観た。

ツイートの内容はモノにも記憶があるというような内容であり、僕自身もこのようなことをなんとなく考えることはあっても明確に考えを深めることはなかった。

まさに、この映画はモノに関する記憶について表現した秀作。 

 ざっくりとあらすじを書くと、主人公の恋人が彼との記憶をある会社に頼んで消す。悲しみに暮れる主人公もまた彼女との記憶を消すことになる。

 

記憶を消す方法が画期的である。記憶を消したいその人との思い出のモノたちを全て会社に運び、それにまつわる記憶を一つ一つ思い出すことによって脳の活性度から記憶の場所を特定、マッピングする。その場所を刺激することによって、その人との記憶をすべて一掃するというもの。

 

主人公は記憶の消去中に、やはり彼女のことを忘れたくないと足掻き、別の記憶の中に彼女との思い出を埋め込もうとするが、どれも順を追って消される。

結局、二人が初めて出会った地名だけが頭に残っていて、彼女との記憶が何も残っていない主人公は衝動的にそこへ向かい、彼女と「初対面」として再会することになる。

 

映像はシュールかつ美的、音楽はBeckの幻想的なサウンドトラックで本当によくできた映画なのだが、ここで着目するのはモノと記憶ということである。

 

つまり、記憶とはどこに在るのかという問題である。

 

頭の中だけで何かを思い出すということもあるが、何かに囲まれていることによって記憶が成り立っていることのほうが多いのではないだろうか。

例えば、昔誰かと一緒に行った場所の、そこにあるモノ、その場の匂いetc…によって、パズルのピースが嵌ったように記憶が立ち現れること経験はないだろうか。

 

この場合、記憶は自分の中にだけあるとはいえなくて、取り囲むモノたちにもあるのでといえる。

逆に言えば、モノが無くなれば記憶もなくなるかもしれない。

だから映画では、その人と関わった全てのモノを持ってくるのである。

しかし、どうしてもモノの取りこぼしはあって、それの一つは絵であったり、車の傷であったりする。そして、それらのモノが引っかかりとして主人公たちはかつての関係のあったことを知るのである。

 

記憶の在り処はモノであるのかもしれない。

 

記憶とモノについて調べていたら、歴史についての社会学者でM.アルヴァックスという人が集合的記憶について提唱しているようだ。

記憶が共有される場としての歴史の展示などを挙げている。これは今度読む。

 

集合的記憶

集合的記憶

 

 

そして記憶は自己の継続性、同一性を確保する。

 

記憶があることによって自らが数年前と同じ人間であることが当たり前のことになるのである。

ここでは、もちろん記憶の在り処としてのモノがある。

 

実家に帰ったとき、自分の部屋の電気をつけると数年前の自分になる。傷のついた机、壁に貼ったポスター、枕カバーの生地…。かつての自分とは体の大きさも考え方も大きく異なっているのにあの時の自分が現れる。

このようにしてようやく、昔の自分と今の自分がつながっていることを知るのだ。

 

時々、それが鬱陶しくなって、全てのモノを捨ててしまおうかと思ったりもする。

自己同一性を否定したくなるのである。なぜ、あの頃の自分と今の自分が同じ人間でないといけないのか。モノが自分を「縛る」から、モノはなくてもいいのかもしれない。

 

逆に、本当に毎日毎日違うモノに取り囲まれていたら自己はどうなってしまうのであろうかと考えてみる。

 

狩猟採集民のように移動しつづける人びとはモノをあまり持たないことが多い。

東アフリカのハッザ族は「世界一物をもたない民族」などといわれるらしいが(これはあまりあてにならないがとにかく)、彼/女らの自己とはどのようなものなのか気になる。

ハッザ族に限らず世の中にはミニマリスト*1という人がいるらしいが、彼/女らの自己とはどのようなものなのか。

 

モノと記憶、そして自己。これについては今後も考えてみたい。

 

 

 

集合的記憶

集合的記憶

 

 

*1:ミニマリストについての記事:

rocketnews24.com

フィールドとの付き合い 『人はみなフィールドワーカーである』

  

 

古本屋で目について買った本。

東京外国語大学のアジア・アフリカ研究所(AA研)の創立50周年記念で発行されたもので個性豊かな著者が短い文章を寄せている。

 

内容は学術的なものではなく、研究者(歴史学・人類学・言語学→人文学)とフィールドとの「出会い」が著者の主観に基づいて書かれたものがメインなので、肩肘張らずに読める。

 

 

多くの民族誌では著者自身とフィールドがどのようにして出会ったのか、フィールドに対してどのような思いを寄せているのかということをほとんど書かれていない。

そこでは調査地の概要から入ることが多く、「どこでもドア」を開けたようにフィールドに目がくらむ。こんな経験ないだろうか。

 

それに私自身も含めてフィールドがまだ決まっていないときに、みんなどんな風に決めて、どんな風に今フィールドと付き合っているのかは気になるところである。本書はそんな人にもいいかもしれない。

 

この本の中で異彩を放っているのは真島一郎の「いのちのフィールドワーク」だ。

フィールドとしていたコートディボワールが内戦に突入し、現地に行くこともできない著者の文章からは果てしない自問自答、人類学者としての懐疑が溢れ出る。

 

フィールドには人間がいて、研究者としての自らも人間である。

こんな「いのちのフィールドワーク」にどう向き合っていけば良いのだろうか。

アネマリー・モル『多としての身体―医療実践における存在論』

 

多としての身体―医療実践における存在論 (叢書・人類学の転回)

多としての身体―医療実践における存在論 (叢書・人類学の転回)

 

 

授業で一度は読んだのですがちゃんと理解できてない部分が多い気がしたので、改めて読み返すがてらメモとしてまとめてみます。 用語については自分が理解しやすいようになるべく簡単にしています。

目次

日本語版への序文

はじめに

第一章 疾病を行う

第二章 様々な動脈硬化

第三章 調整

第四章 分配

第五章 包含

第六章 理論を行う

 

解説

医療人類学の本。オランダの大学病院で動脈硬化について1990年頃にフィールド・ワークを行った結果をつぶさに記述しながら理論を丁寧に浮かび上がらせる。そのため、もちろん具体的なことについて語られているのだが、語られている概念は医療に限定されない。

 

モルがブルーノ・ラトゥールやジョン・ローとともに提唱するアクター・ネットワーク理論(ANT)やマリリン・ストラザーンの概念を民族誌の中で丁寧に実践しているため非常に勉強になる。

 

またモル自身も読みやすいように心がけているし、翻訳者にも分かりやすさを優先させて欲しいとのことであるため、本文もストラザーンのように読みにくくないのが嬉しい。

 

※本書の構成について。上段に民族誌、下段に(少し小さめな字で)理論・文献について、というように分けて書かれている。これはモルが「どのように文献と関連づけるか?」(p.26)をもうひとつのテーマとして取り組み、これによって人類学を実践していくことを示している。往復しながら読むと理解が進む。

 

でははじめからまとめていく。 

 

「疾病」と「病い」の区別をやめる

パーソンズをはじめとするような、これまでの医療人類学、医療社会学は医療について「疾病」と「病いやまい)」に分けた。これは現在の研究でも用いられることが多い。

これはつまり「疾病」を生物医療のものとして、「病い」を生物医療以上のこととして区別することによって、社会科学が医療について語れるようになったことを示している。

簡単に言えば、病気について専門的なことは知らないけど、病気にまつわるような心理的・社会的な解釈(例えば、ガンになったら世界の見方が変わったとか、病人は社会ではこう扱われているとか)もできるよねという話。

 

しかし、この枠組みでは「疾病」について社会科学者が分析することができない。だからモルはこの枠組みを壊すために本書においては(医療人類学が通常使う「病い」ではなく)「疾病」を一貫して用いる。

 

(また、この区別について自然と文化の区別との類比から考えつつ、その区別がもはや有効ではないことを書いている。)

(この意欲的な試みは社会科学の「軟弱さ」みたいなものを払拭することができると思うので個人的には好きです。)

 

では、動脈硬化とは何か?

ここでモルは単独で普遍的に存在するような客体としての動脈硬化があるのではなく、様々な動脈硬化が実践のうちにそれぞれ存在していると観察する。

言い換えれば、動脈硬化はある条件が揃った条件において一つ一つある(being)のである。

逆に言えば、ある条件が揃わないときには動脈硬化などない。

 

モルはこれを一つ一つ丁寧に見ていく。

(患者の切断された足をモルは専門研修医と一緒に顕微鏡で覗く。研修医がいう)…内腔の周囲の最初の細胞の層が内膜だ。厚い。…ここからここまでだ。見て。あなたの探していた動脈硬化だ。これだ。内膜の肥厚。これがまさにそれだ。 それから、少し間をおいて、彼はつけ加えた。「顕微鏡の下に」。(pp.60-61)

ここでモルは最後の「顕微鏡の下に」に注目する。

私の試みは、この最後の補足にかかっている。・・・肥厚した内膜はもはや独力で存在しているわけではない。顕微鏡を通して存在している。(p.61) 

つまり、顕微鏡をはじめとした器具、それが可能になる場所がなければ動脈硬化はない。

通常、近代的な発想ではここで、元からあった動脈硬化に対して顕微鏡を通して発見したと考える。しかし、モルはそのように考えるのをやめる。顕微鏡がなければ内膜の肥厚=動脈硬化はどこにもないのである。

 

そして、ここでいう動脈硬化は、問診室で生きている患者に症状を教えてもらいながら、あるいは足を触りながら診断する動脈硬化とは似ても似つかない。

なぜなら生きた患者から血管を取り出すことができないため、血管の観察などできないからである。

 

もちろん、問診によって動脈硬化であると診断された患者が死に、検視をする際に足を切断して顕微鏡で視ることによって血管内膜の肥厚=動脈硬化が診断されることはある。しかし、この二つがかみ合わないこともよくある。

 

つまり、それぞれの実践に実在としての動脈硬化は依存しているのである。

 

このようにモノをはじめとする条件(=アクター)が組み合わされた場合に、動脈硬化があることについてモルは「実行する(enact)」という言葉で表現する。

 

このようにしてアクター・ネットワーク理論を提唱する。ある実践において、モノや行為、条件などのアクターがそれぞれに影響を及ぼしながら、つながりであるネットワークを作る。このネットワークに動脈硬化がある。

 

医療実践における存在(オントロジー)は特定の場所や状況に結び付いている。(p.92) 

 

顕微鏡で視るときには内腔の侵食と血管壁の肥厚であり、診察室では運動の後の痛みであり、歩行中の痛みである。

 

ここで重要なのは、いわゆる「主観」(例:痛み)や「事実」(例:肥厚)を同格のものとして考えることである。これらはどちらもそれを取り囲むような道具や数値、会話などがあるため、それぞれ一つの実践として成り立っている。

 複数の動脈硬化を調整する

では、このようにそれぞれある存在としての動脈硬化は全くバラバラなものとして病院にあるのか?いや、そうではない。

病院には異なる複数の動脈硬化が存在しており、それらは差異があるにも関わらず、複数の動脈硬化はつながっている。実行された動脈硬化は、一より多い―しかし、多よりは少ない。多としての身体は断片化されていない。…したがって、問われるべきなのは、これがどのようにして達成されているのかである。(p.92)

 

第三章ではこのように複数の動脈硬化が取りまとめられて扱われる方法について記述している。

モルによればその方法とは一つが加算すること、もう一つが較正されることである。

加算

二つの客体としての動脈硬化(ここでは検査結果)が一致しないとき(例:患者の歩行中の痛みにも関わらず、血圧には異常がないとき)は実践の内容の検討=括弧をはずす(例:血圧測定のプロセスについて考える)によって、片方の検査結果が勝つ(例:血管が石灰化しすぎていて圧迫ができなかったことが原因だと断定⇒痛みとしての動脈硬化が勝つ)。

これによって、患者は一つの動脈硬化をもつことになる。(p.108)

 

あるいは、二つの動脈硬化(ここでは歩行中の痛みと血圧の低下)が患者にある場合、二つの治療法(歩行療法とカテーテルを入れる手術)はそれぞれに対してしか効果を上げない。(この点で動脈硬化が二つ客体としてあることが再び示される。)

しかし、患者が「よくなる」という点を基準として打ち立てることで一つの動脈硬化として扱う。

ここでモルは「ラザフォードの成功の基準」を例に挙げる。これは歩行中の痛みの改善と血圧の低下のどちらもを患者の「よくなった」指標として考える基準である。これによって動脈硬化が単一性をもつとするのである。

この場合、動脈硬化が二つあることについてはそのままにされる。つまり複合的な客体となる(=パッチワーク:これはストラザーンの概念)。

較正

二つの検査結果(ここでは血管造影と超音波)が合わないときには、パラメーターを設定することによって、一方の結果がもう一方の結果として表現できるような(=翻訳)相関研究が示されることによって、比較が可能になる。

 

このようにして複数の動脈硬化が取りまとめられる方法について第三章で説明された。

しかし、別の場面を見てみると必ずしもそれぞれの動脈硬化は取りまとめられているわけではないことがわかる。

分配

むしろ、日常的な検査・治療における動脈硬化は「普遍・一般的」な動脈硬化が求められることもまれで、それぞれの条件(患者の状態、治療の方法…)に分配されている。

第四章ではその分配のされ方に四つの形式を挙げているが、最もわかりやすいのは治療の際の形式であろう。これがよく示された部分を引用する。

治療実践において、動脈硬化は、迂回されるもの、削り取られるもの、わきに押しやられるものの、いずれかの単一の実在にもならない。それら三つの実在のすべてである。しかし、三つ同時にではない。それらの実在は、異なる患者集団に、適応基準に従って分配されている。(p.154) 

 

ここで「迂回されるもの、削り取られるもの、わきに押しやられるもの」としているのは手術の方法のそれぞれパイパス手術、動脈内膜切除手術、カテーテル手術を示しており、実践において扱われる(処置される)という意味での客体=対象としての動脈硬化はそれぞれの患者の状態によって当てはまる(=分配)。

 

このように、全てを統合するような一つの実在としての動脈硬化は実践においてはなく、それぞれに割り当てられている。

しかし、医師たちはあくまで「動脈硬化」という言葉をすべてに対して用いる。この言葉こそがそれぞれを架橋し、取りまとめるメカニズムであるとモルはこの章を締める。

 

包含

第五章では、それぞれの実在としての動脈硬化同士の関係について記述している。

この関係とはどちらかが大きい、小さいという推移的な(transitive)関係ではなく、非推移的な(intransitive)関係である(p.173)。

例えば、人口学的な統計としての動脈硬化は個人の動脈硬化の集まりによって示されるが、逆に個人の動脈硬化の基準(コレステロール値の正常値)は人口学的な統計から示される。

このように見れば、どちらかが大きい、小さいという関係、つまりどちらかがどちらかを包むというような全体性は想定ではない。

むしろ、それぞれの実践は隣り合っていて、スイッチのように切り替えられるものであるが、互いに包含し合っている。

そしてそこには摩擦があるような緊張関係も存在する。

 

理論を行う―オープン・エンド

さて、ようやく最終章「理論を行う」。

上記のように本書では疾病について書くということを行ってきたがここでモルは結論を書かない。

しかし、これは何をしたことになるのだろうか?この記述とともに行われたことは、何だろうか?本書の物語は、最終的に医療実践についての真実を明らかにするものではない。(p.213)

通常の本としては、ある真実について明らかにするということが目的として考えられており、その真実について、いかに「正確に」記述するかによって本の価値が決まると思われる。

しかし、モルはこのこと自体について疑問を呈している。

これは間違いなくポストコロニアル論争に対しての一つの提示である。

本書は、脱身体化された思考から離れて、さらなる一歩を進んでいる近年の研究潮流の一部である。これは客体を見ようとするまなざしを追うことを止めて、代わりに客体が実践のなかでまさに実行されているさまを追うことを意味する。つまり、強調点が移行している。観察者の目の代わりに、実践者の手が、理論化の焦点となるのだ。(p.215) 

 

知識はもはや、実在についての言表ではなく、他の実践に干渉する一つの実践だとされる。こうして知識は実在に参与する。(p.215)

このような意味で、最終章のタイトルは「理論を行う」なのである。

では、このように実践への転回を経た今、実在について「いかに確信できるか?」ではなく「いかに疑いとともに生きるのか?」が問いとなってくる。(p.230)

このようにして(学問、研究において)「何をすべきか」という問いが、もはや「何がリアルなのか」に依拠しないのであれば、「この実践はそこに関わる主体(人間であれそれ以外であれ)にとってよいか?」という問題が重要になってくるという。

つまり、善がより意味のあるものになってきたとして、231頁以降は(又聞きかつ未読なので確かではありませんが)2008年のThe Logic of Careにつながる話が書かれている。(『多としての身体』の原著は2002年)

最終的な結論がなくとも部分的=党派的(パーシャル)であることは可能であり、オープン・エンドであることは固定化を意味しない。(p.254)

 

さいごに

では、長くなりましたが感想として一言だけ。

実践について詳細に分析することで理論を丁寧かつ実証的に記述しているのはさすがという感じ。そして、本書も一つの実践として考えることで新しい民族誌の可能性について提示しているという意味で人類学にとっては希望の書ではないだろうか。

 

以上です。間違っているところなどありましたらコメントください。

 

『インディオの気まぐれな魂』Vol.2 他者ではなくて他者性 文化を捉え直す

 

インディオの気まぐれな魂 (叢書 人類学の転回)

インディオの気まぐれな魂 (叢書 人類学の転回)

 

 

前回が長くなってしまったため分けました。今回も最後まで行けなかった。

今回はp.31~p.52。インディオのヨーロッパ人への対処が構造主義的に分析されており、文化を捉え直しています。

 

 

インディオは宣教師たちに〈彼岸〉の情報を求めた。それは宣教師たちにとっては都合の良いことのように思われた。彼らは「確たる神をもたない」「白紙」(p.34)の状態であるため、神を信じさせることは容易に思われたからである。

 

インディオたちはキリスト教の終末観、最後の審判に驚嘆し、宣教師たちに長寿と健康を求め、宣教師が死を司るものとして畏れた。

 

ここで見られるようなインディオたちの言動を考えるにあたって次のようなことが言える。

 長寿、豊かさ、戦争での勝利―つまりは「悪なき大地」の主題である。イエズス会の司祭たちは、トゥピナンバにおけるシャーマン、カライバに同化されていた。この同化は、ヨーロッパ人が超自然的な力をもった人物として分類されたという文脈で読み解かなければならない。(p.39)

造化の神の名前「マイール」がフランス人を表す民族名であり、造化の神やシャーマン、文化英雄を表す「カライバ」が司祭のみならず、ヨーロッパ人一般を指示するようになった。

 

この「解釈」は隠喩以上のことである。(p.40)

つまり、フランス人を神に「例えて」いるだけではない。

 

ここではレヴィ=ストロースが分析した神話における主題について参考にできる。

人間の条件(社会的にして死すべき存在であること)が確立する、人間と文化英雄の区別、これに関わる神話的な母型がインディオとヨーロッパ人の区別を思考するのに役立ったのである。(p.41)

 

ここはがっつり構造主義かと思う。人間と文化英雄との違いは、インディオとヨーロッパ人の違いに当てはめられる。

(これは『森は考える』にも出てきた)

 

そしてインディオがヨーロッパ人に対する畏れはヨーロッパ人に対して崇拝(クルト…ここでは天上のもののように崇めるイメージか)を意味するものではない。

インディオにとって人間と神は実体としては同じであり、ある基準によって区別されたものである。

つまり、全くの「別物」(ここでVdCは「存在論的障壁」(p.45)という言葉を使っている)として、乗り越えられない絶対的な違いとしてヨーロッパ人があったわけではない。

 

むしろ、その違いを克服する可能性を持つ他者性を持つものとしてヨーロッパ人はあった。克服は婚姻によって行われるため、ヨーロッパ人に対して妹や娘を結婚相手として差し出すことがあった。そしてそれは「非常な名誉」である。

 

インディオにとっては関係的な親和性=婚姻関係(アフィニダージ)が肯定される価値としてある。

そして、このようにして他者を取り込み、自己に同一化させるという行為(食人を含む)をインディオは続ける。

 

ヨーロッパ人が崇拝されたのはまさしく「別の世界から」やって来たからであり、それゆえ外部性の使者であり、魂、死と親しいものであったからである。(p.48)

 

ここでVdCは「文化」についてこう述べる。

文化とは、一つの信念の体系ではなく、むしろ―それは何かでなければならないので―多様な伝統的内容を支持し、また新しい内容を吸収することのできる、経験の潜在的な構造化の総体である。すなわち、それは文化化する装置、あるいは信念を加工処理する構成的な装置である。(p.49) 

言い換えれば、「これはこれ」「あれはあれ」というように絶対的なものとして固定的に配置されたものを信じるのではなく、「こういうものはこう」「ああいうものはああ」というような関係性の把握、認識、想像、創造の仕方が文化である。

 

このようにしてヨーロッパ人を取り入れ「魂を売った」とさえ思えるインディオたちが戦争をやめなかった。

いや、逆である。戦争のために「魂を売った」のである。